Das Glasperlenspiel

○ドイツの小説家へルマン・ヘッセの大作「ガラス玉演戯」を考察しています。ヘッセの他の著作についても、「ガラス玉演戯」と絡めて解説します。

『車輪の下』車輪の下じきにならないように

車輪の下』はドイツの小説家ヘルマン・ヘッセの代表作です。しかし、人気と知名度があるのは日本だけで、世界的にヘッセの代表作として名前が挙がるのは『ガラス玉演戯』や『シッダールタ』『荒野の狼』などです。

 もちろん、この小説はヘッセの自叙伝的位置付けにあるので世界的にも人気があるのですが、暗く陰鬱な内容でもある本書は、ヘッセファンの私からすると「ヘッセの魅力の全てではない」と、注釈を加えたくなります。

 一時期、日本では「詰め込み教育」「受験戦争」が起こり、その反動として「ゆとり教育」が始まったのですが、情操教育の重要性を見直そうとする教育者や教科書編集に従事していた方たちからは、本書はとても人気があり、現在の知名度となっているようです。

原題:Unterm Rad 1906年

 

 

車輪の下』のあらすじ

 主人公ハンス・ギーベンラートは自然溢れる小さな片田舎に産まれた。彼の父親は世俗的な仲買人で、病弱な母親は彼が幼い頃に死んでいた。

 ハンスは町始まって以来の天才で、その天分を疑うものは居らず、校長も牧師も町の住人たちも彼に期待を寄せていた。彼もその才能に甘えることなく、朝から晩まで勉学に勤しんだ。

 かくしてハンスは「州の試験」という国家試験を2番という好成績でパスし、地方の秀才のみが入学を許される神学校へと進学が決まった。しかし、彼の本質は自然児であり、受験勉強から解放されると父親の許しを得て、入学までの余暇を山や川で遊んだ。

 ハンスは神学校に入学すると、周りから期待されるような優等生を努めたが、詩作をするヘルマン・ハイルナーを友人に得る。叙事的なハイルナーはハンスとは対照的に度々学校と衝突し、ついには学校を脱走する。

 脱走者ハイルナーは程なく捕まるが、退校処分になり学校を去る。その頃からハンスは心のバランスを失い成績を下げ、ハイルナーと仲が良かったせいもあり、生徒や教師からも心ない言葉を投げ掛けられ、孤立を深めていく。

 学園生活が不可能になったハンスは、父親の元へ送り返された。町の人は同情と失望と、憤慨や嘲笑で彼を迎えた。故郷で機械工として再スタートを切った元神学校生徒ハンスを、あるものは「州試験錠前屋」となじった。

 機械工になったハンスは、修繕に持ち込まれた歯車をやすりで終日磨き続け、自分の手が汚れていくことを愉快に思った。

 しばらくして先輩職人から飲み会に誘われて、ハンスは同僚に混じって職人気取りで気持ち良く酔っぱらったが、酔っている自分を客観視して不愉快になった。

 翌日、ハンスは川で水死体となって発見された。

 

 ”どうして彼が水の中に落ちこんだか、誰も知らなかった。たぶん道をまちがえて、けわしい場所で足をすべらしたのだろう。あるいは、水を飲もうとして、平衡を失ったのかもしれない。あるいは、美しい水を見て引き寄せられ、その上にかがんだのかもしれない。そして、平和と深い休息とに満ちた夜と月の青白い光が彼のほうをじっと見たので、彼は疲労と不安のためずるずると死の影に引き込まれたのかもしれない。”ーP.218

 

車輪の下』の主題 「車輪」の意味

”疲れきってしまわないようにすることだね。そうでないと、車輪の下じきになるからね”ーP.122

 

 ドイツの言い回しでは、「車輪(Rad)の下敷き」には落ちこぼれの意味があります。またRadには、車輪・歯車・水車の意味があり、機械工となったハンスは歯車をやすりで磨いています。

 ドイツでは他にもRadを使った格言があります。

 

”いちばん悪い車輪がいちばんひどくきしむ”

意味:役に立たない者ほど、がたがた文句を言う。

 

 チャップリンの『モダン・タイムズ』では、積極的に自身を社会の歯車に貶めようとする現代人を揶揄しています。

 

”校長からギーベンラートの父親や教授や助教師にいたるまで、義務に励精する少年指導者たちはいずれもみな、ハンスの中に彼らの願いを妨げる悪い要素、悪く凝り固まったなまけ心を認め、これを押さえて、むりにも正道に連れもどさねばならないと思った”ーP.144 

 

 これが車輪です。そして指導者たちは自らが歯車の一部となって、ハンスを矯正することが正しいことだと信じて疑いません。

 

 現在の日本でも学校での授業だけでは足りなくて、学校以外でどれだけ努力できたかが重要です。社会においても、就業時間外にどれだけ時間を捧げられるかが期待されます。

 こうしてワーカホリックを大量生産します。自分自身を育てる時間を削って勉強し働くことを、正しいことだと信じて疑いません。

 

車輪の下』が伝えたいこと

 ハンスの本質は自然を愛し、自然のなかで喜びを感じる自然児です。しかし、たまたま頭が良かったせいで、大人たちは彼に期待し、社会で有用となる人物に育てようと矯正します。押し並べて平滑にする方が、社会に出ても御しやすい有用な人物(車輪)を大量生産できます。ハンスもそれが正しいことだと信じ、期待に応えようと努めます。

 ハンスの突出した部分を矯正するのではなく、理解し育ててくれる大人が一人でも身近にいてくれたならとも思うのですが、そのような人物はハンスと同様に、早い段階で社会で溺れてしまいます。

 

車輪の下』の不完全さ

 ヘッセの自叙伝的な内容を持つ本作ですが、ヘッセが学業を断念してから小説家として大成するには、母親の献身的な支えが不可欠だったとも言われています。母親を幼いときに亡くしているハンスは立ち直ることが出来ずに物語は終わってしまいます。

 ヘッセは詩作と小説に芸術的昇華という方法を得ますが、自然児ハンスは母親が居らず、芸術を知りません。ヘッセのもうひとりの分身として描かれている、詩作に目覚めたヘルマン・ハイルナーは、神学校に馴染めず脱走しています。

 

助教師のヴィードリヒは親切な若い先生だったが、ハンスのとほうにくれた微笑に心をいため、脱線した少年を思いやりのあるいたわりをもって遇したただひとりだった”ーP.143

 

 『車輪の下』のバージョンアップ版とも言える『知と愛』では、主人公ゴルトムントは若い先生ナルチスの導きによって、自身の内側に芸術に奉仕する心を見いだされます。

 もちろん、『車輪の下』は完成されたひとつの作品として味わうことができますが、小説家ヘルマン・ヘッセの完成は、自然児ハンスを芸術家ゴルトムントにまで高めた『知と愛』に見ることができると私は思っています。

 『車輪の下』では理解者となってくれる大人が登場しませんが、『知と愛』では、主人公の内側で眠っている隠れた本質を見抜き、その心を大事に育てるように導いてくれる存在がいます。社会の歯車とならず、個性の香気を保ち続けている指導者です。

 

 私も『車輪の下』は大好きですが、ここまで本書を下げるのは、ヘッセの代表作として紹介されることで、ヘルマン・ヘッセに陰鬱な印象しか受け取ってもらえないことが悲しく思うからです。

 

車輪の下』と『ガラス玉演戯』との関係性

 小説『ガラス玉演戯』との関連性は、優秀な学生が全寮制の学校に進学し、学業を断念し世俗に戻っていくというプロットを共有しています。

 これは『知と愛』にも共通しているのですが、『知と愛』では芸術に目覚めた主人公が学校を飛び出し、世間を旅をしながら有名な親方に師事し、修行を積んで芸術家として学校に招かれ、聖人像の作成依頼を受けて完成させています。  

 小説『ガラス玉演戯』が発表されなければ、『知と愛』が小説家ヘッセの集大成となったと思えるくらい完成度の高い物語です。しかし、ヘッセは『知と愛』をさらに磨き上げて、『ガラス玉演戯』を完成させます。

 瞑想法[ガラス玉演戯]はそれ自体が、芸術家が創作活動に臨む態度であり、芸術を取り込んでいます。そしてその態度を学問の発展に向かわせようとするのが思索法[ガラス玉演戯]です。

 小説『ガラス玉演戯』では、主人公ヨーゼフ・クネヒトは教育州カスターリエンで最高位であるガラス玉演戯名人に就きますが、最終的にはその職を辞し、世俗の子の家庭教師となって世間に戻っていきます。

 主人公が水死するという結末も、両作品に共通する部分ではあるのですが、世俗→学校→世俗→水死という大きな流れを共有するのは、ヘッセのパターンです。

 そしてこれは「自然に還れ」というメッセージでもあると思っています。人間も自然の一部ですので、いつかは自然に戻らなければなりません。また、生きている間も自分が自然の一部であることは忘れがちです。

 自分の中から自然に出てきたものを、無理に抑え込んではいけません。

 

『ヘッセの読書術』第三レベルの読書法

 『ヘッセの読書術』より、ヘッセが提唱する読書の第三の段階、つまり「読者であることをやめる」を用いてこの作品を読んでみます。

 

 「人生は川の流れのように」だったり、「人はみな大河の一滴」だったり、人生は川の流れに例えられたりもします。

 泳ぎの得意な人は上手く社会の波に乗って、自身も大きな流れの一部となっていきます。また、ある人はその流れに乗り遅れないように必死に付いていきます。また、泳ぐのは不得意な人もいて、後から来る人たちに小突かれながらも藻掻いています。

 私たちが自由だと感じていた生き方は、実は川幅という限られた範囲でしかなく、自分の意思で歩いていたと思い込まされていますが、本当は大きな流れに従って、泳がされているだけなのかも知れません。そのとき私たちは、一滴の水であるのと同様に、社会を進める消耗品の車輪の一つです。

 しかし、力のある本当の芸術家だけが、川岸から丘に上がり二本の足で歩き始めます。川で流されている間は周りに皆がいましたが、大地を歩くことは孤独な旅です。そして芸術家たちは悪戯に川に舞い戻り、世界がどれだけ広かったかを私たちに語ってくれます。

 そして、ここで問題となるのは、私たちはこの川の流れの行き着く先を誰も知らないことです。誰も河口の状況を把握しないまま、自由に歩いていると勘違いしながら、泳がされていることです。

 本物の芸術家のみが、私たちの社会が抱え込んでしまった不自然さを、社会や生活の外側から教えてくれます。

  

 一冊の本を文面通りに受けとるのではなく、本を閉じ、自身の妄想と空想とを広げるネタにすることが、ヘッセの奨める読書術です。