Das Glasperlenspiel

○ドイツの小説家へルマン・ヘッセの大作「ガラス玉演戯」を考察しています。ヘッセの他の著作についても、「ガラス玉演戯」と絡めて解説します。

第一章 「召命」 教育州カスターリエンの教育制度

 小説『ガラス玉演戯』の物語は教育州カスターリエンという架空の学園都市(州)で展開されます。こちらの章では主人公ヨーゼフ・クネヒトが教育州カスターリエンの英才学校に入学し、教育課程を終えて、研究課程に臨んでいく準備期間が描かれています。 

 教育州カスターリエンには、教育庁と宗団があります。基本的には映画「スターウォーズ」の、ジェダイ評議会とジェダイ寺院をイメージしてもらうと簡単です。宗団員はお金や物の個人所有を禁止され、結婚もできません。

 

 

 

第一章 「召命」のあらすじ 

 天才児クネヒト少年は、教育州カスターリエンから来た音楽名人に見いだされ英才学校への入学を許される。教育州カスターリエンの宗団の聖職制度、教育課程の説明する章。クネヒト13~17才くらいまでのエシュホルツ校時代の話。

 教育州の宗団と教育庁の聖職制度は、キリスト教修道院をお手本に、教会を中心とした宗教都市のように、大学を中心とした学園都市を州単位にまで拡大したように描かれている。

 教育州では、ガラス玉演戯名人と他十二人の名人(音楽名人、瞑想名人、言語名人など)を筆頭に、学問を追求する研究者の育成を行う。英才学校は22歳から25歳までで完結し、卒業後は教育州の外の公立学校の教師になったり、教育州の中で自由な研究活動を認められた。

 特に優秀な人物については宗団に採用され、教育庁の職務に関わり、指導的な立場になる。卒業生は宗団の規則に従うことになり、お金や物を所有せず、独身生活を送る。当然、途中で脱退して世俗に帰っていく者もいる。

 

教育州カスターリエンの聖職制度

 教育州カスターリエンでは、国内の成績優秀な学生を集め、州内の複数の町で運営されている英才学校で英才教育が施されています。生徒は公立学校の教師からの推薦というかたちで英才学校へ試験的に入学が許可されます。

 主人公のクネヒトのように、多くの生徒は中学生くらいから英才学校に入学するのですが、全寮制の学校になるので、本人の意思と両親の許可が必要になります。当然、馴染めずに故郷の公共学校に戻る生徒もいます。

 教育州の英才学校はスコラ的で清貧と勤勉を戒律にする厳格な校風になっており、信仰を持たない修道院のような学校の中で、学問の発展のみに献身します。つまり、カスターリエンでは無神論者の宗団が形成されます。

 卒業生は宗団の一員となり、規則に従い生涯独身で無所有を貫きます。結婚や商売をするには退団しなければなりません。(スコラはスクールと語源をともにし、起源は教会や修道院の付属学校です。)

 英才学校時代は大きく教育課程と研究課程に分かれ、教育課程では通常の教育とスコラ的な共同生活や宗団の規則を学び、22才~25才までが英才大学での研究課程です。卒業後は州外の公立学校の教職に就いたり、州内で生涯を通して自由な研究を行うことが許可されます。

 また、州内にとどまり自由な研究を許された人たちは英才連を形成し、後輩たちの指導も任され、復習教師とも呼ばれます。研究テーマは規制がなく全く本人の自由で、実益がなくとも学問の発展を目指したものであれば何でも認められます。

 その中でも特に優秀な人材については、宗団に取り上げられ、宗団や教育庁の重要な職務に従事します。教育庁では州内だけでなく、国内全ての教育事業・施設の決定・監督がなされます。

 教育庁と宗団の聖職制度は税金によって維持され、12名の名人(研究管理者)と1名のガラス玉演戯名人を頂点とした教師と役人で構成され、学問の発展のみに献身する無償の公務員によって運営されます。

 

第一章 「召命」のトピック

 主人公ヨーゼフ・クネヒトの出自についてはよく知られていない。英才学校に入学する多くの生徒と同様に、両親を早くに亡くした孤児だったと推察されている。

 伝記作家にとって歴史を書くということは、冷静に事実に即した善意を持っていたとしても、常に創作であり虚構であることを忘れようとは思わない。

 クネヒトの英才学校入学以前の時代について唯一分かっていることは、彼の精神が彼に向かって呼びかけをしたとき、それが学問ではなく音楽の側からだったことだ。

 12、3才頃のクネヒトは、ツァーバー森のはずれの小さい町ベルロフィンゲンのラテン語学校の生徒だった。彼は成績優秀で給費学生(奨学生)であり、教師一同から何度か英才学校へ推薦されていたが、当人はその事実を知らずにいた。

 そしてついに教育庁から音楽名人が訪れ、クネヒトの入学試験が行われた。クネヒトの入学試験は音楽名人と一対一で行われ、彼はヴァイオリンで音楽名人から示された古いリートを弾いた。音楽名人はリートから主題をとり、クネヒトにフーガの初級レッスンを行った。

 かくして、クネヒトはエシュホルツの英才学校へと進学した。英才学校では寄宿舎生活に馴染めなかったり、勉強についていけなかったり、ホームシックに悩まされ学校を去っていく同級生もいるなか、クネヒトの学校生活は順調で、無邪気に発展を遂げた。

 英才学校はクネヒトにとって好ましく、まるで彼のために用意された場所かのように彼を育てた。一方で、学校を去って世間に戻っていく同級生に対してクネヒトは、彼ら脱落者は堕天使ルチフェルと同様に、なにか偉大なところを持っているように感じた。

 クネヒトは世間や故郷に戻ることは望まないが、時が来て、必要を感じれば、後ろや下ではなく、より前や高みを目指して跳躍できるようになりたいと考えた。また、エシュホルツにとどまる自分を臆病者と卑下した。

 クネヒトを見いだした音楽名人は住居を別の地域に持っていたが、2、3か月に一度のペースでエシュホルツを訪問し、音楽の授業を視察していた。その際、音楽の天分に恵まれている生徒を直接指導することもあり、クネヒトも目をかけられた一人だった。

 ある時クネヒトは、世俗の学校を卒業した生徒が、世間で自由な職業に就くのに対し、カスターリエンにはそのような自由が無いのか、また、なぜそれを「自由な」と呼べるのかが理解できず、音楽名人に尋ねる。

 音楽名人はクネヒトの問いに対して、世間では成功や金、野心や名声欲など、低級な力の奴隷になっているにすぎないと答える。カスターリエンの聖職制度では、自身の能力を最も良く発揮できる職務が用意される。隷従を意味する職業の自由から解放され、制限のない研究を許されている、と諭す。

 クネヒトにとってエシュホルツ時代は幸福に満たされ、17才になると上級の学校への転学の通知を受ける。卒業式後の休暇を利用し、音楽名人はクネヒトをモンテポルトにある自身の住居に招き、進学を控えたクネヒトに瞑想法を指南をした。

 クネヒトは教育州の中でも[ガラス玉演戯]が最も盛んなワルトツェルに進学したいと考えていた。音楽名人も彼の思いを見抜き、彼に[ガラス玉演戯]を目指す上で、忘れてはならないことを忠告した。

”まず対立として、それから統一の両極として認識するのだ”-P.64

”われわれのひとりひとりは、一個の人間、一つの試み、一つの途上にすぎないのだ。だが、みんなが、完全なものの存在するところに向って途上にあるのでなければならない。周辺ではなく、中心に向かって努力するのでなければならない。”ーP.65

”君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない。”ーP.66

 

音楽名人による導き

 序章では小説『ガラス玉演戯』の主題が良く分からず、[ガラス玉演戯]の真髄についても語られていませんが、これらは音楽名人の台詞としてようやく提示されます。とても重要な内容だったので、伝記作家が語るのではなく、音楽名人の偉大さを示すために温存されました。

 

対立の両極 個人の完成

 [ガラス玉演戯]の真髄は、矛盾する対立を止揚し、統一された両極としてそのまま認識することを目指します。左右に揺れる振り子を見るように、その振幅と波の状態をそのままに取り込みます。量子論がイメージされます。

 そして、小説『ガラス玉演戯』の主題は個人の完成です。音楽名人はその職務とヒエラルキーによって生じる軋轢で精神が鍛えられ、個を滅して聖職制度に奉仕することで個の完成が達成されるように描かれています。最終的に音楽名人は輪廻から解脱し、涅槃に達したように描かれています。

 一方で、クネヒトは音楽名人の辿った道に従わず、自らの道を切り開き教育州カスターリエンを去る決断をします。聖職制度の中に自らを溶け込ませる方法を示しながらも、ヘッセはヒエラルキーの外に個の完成を模索しています。

 この章で、クネヒトは英才学校を去っていく同級生を見ながら不安を感じているのですが、この落伍者の存在は聖職制度の不完全さを示し、またクネヒトの決断の伏線となっています。

 

ヒエラルキーに依らない個人の完成

 ヘッセの宗教観を乱暴に解説すると、仏教やプロテスタントは中心を欠くので、互いに相容れず放射状に離散していく可能性があるので、それをヘッセは危惧しています。ですが、バラモン教ローマ・カトリックは秩序や整合性を志向しますので、中心を求めようとします。

 中心を求めると衝突や軋轢が生じ、また組織の維持自体が目的化してしまいますが、結果としてそれが個の精神を向上させる試金石となります。

 そしてヘッセはヒエラルキー(権威、階級)を必要としない公分母を[ガラス玉演戯]で求めます。このため、「脱落者は堕天使ルチフェル」と、クネヒトをヒエラルキーの外へ向かわせます。

 ですが、これはわたし個人の感想ですが、ヘッセは「信心深い方たちの敬虔な態度」を人類が到達できる極地として、信仰に対して敬意を払い続けています。信仰の中にある敬虔な方たちが、信仰の外にある雑事によって祈りが妨げられるようなことがないように、[ガラス玉演戯]が雑事を受け持つのだと私は思っています。

 

前音楽名人の「神聖な変容」

 音楽名人はこの章で、学生クネヒトに対して聖職制度の重要性を説きます。

”わがカスターリエンは、精華だけであってはならない。何より聖職制度でなければならない。それは一つ一つの石も全体によって初めて意味を与えられるような建物でなければならない。この全体から抜け出す道はない。より高く登って、より大きな課題をあてがわれるものは、より自由になるのではなく、いよいよ責任が重くなるばかりだ。”-P.67

 

 「第八章 二つの極」では、クネヒトを導いた音楽名人は名人を引退し隠居生活に入っているのですが、聖職制度の中で個人を完成させています。

 ”だんだんと物質から離脱し、肉体的な物質と機能が消える一方、生命はいよいよもっぱらなまなざしと、くぼんでいく老人の顔の静かな輝きとのなかに集中していくことであった。”ーP.238

 

 クネヒトは老齢で弱っていく前音楽名人を何度も訪問するのですが、グノーシス的な肉体からの解放や、仏教的な解脱が描写されています。宗教や聖職制度では「生命の終わり方」の中に教義を求めますが、クネヒトは前音楽名人を越えて、「生き方、生活」の中に答えを求めます。