Das Glasperlenspiel

○ドイツの小説家へルマン・ヘッセの大作「ガラス玉演戯」を考察しています。ヘッセの他の著作についても、「ガラス玉演戯」と絡めて解説します。

『デミアン-エーミール・シンクレールの少年時代の物語』自己の完成

 『デミアン』はヘルマン・ヘッセの小説の中では世界中で人気のある作品です。最近のアマゾンの売れ筋では、「シッダールタ」「荒野の狼」「ガラス玉演戯」「車輪の下」に混ざって、上位の方で本書が出てきます。

 『デミアン』は第一次世界大戦中に執筆された作品で、内容的にはかなりショッキングな作品です。ヘッセははじめ、「エーミール・シンクレール」という偽名を用いて、戦闘で負傷した兵士が野戦病院で手当てを受けながら、昔を回想し執筆した作品のように偽装して本作を発表しています。

 内容としては、カイン宗徒(グノーシス主義)やアプラクサス(ABRAXASはグノーシス主義)について言及しながら物語を進めています。登場人物の一人であるエヴァ婦人を「万物の母」と形容したりと、かなり攻めています。(イブは人類の母です。万物の母は「物の母」なので、別物です。)

 「デミアン」自体がデーモン「悪霊にとりつかれたもの」から出ているとヘッセ自身が語っています。カイン主義は、「人類最初の殺人」を犯したカインの方こそ、高貴な人間とする異端の考えです。しかし、当時は大戦中で同じ信仰を持つ同胞・兄弟同士のキリスト教徒が敵味方に別れて殺しあっている状況でした。

 もはや、カインやアベルがという神話とは関係が無く、実際に兄弟殺しが行われている世界でした。

原題:Demian: Die Geschichte von Emil Sinclairs Jugend 1919年

 

 

 

 

デミアン』のあらすじ

 主人公エーミール・シンクレール少年は裕福な家庭に育ち、父親の保つキリスト教と聖書の世界に暮らしていた。ある時、マックス・デミアンという年長の少年と知り合い、聖書の外側にある世界を知る。

 その後の思春期を異端や異教徒の教えに見識を広めながらも、最終的には自身の身の周りにある教えではなく、自分の内側から発せられる目的「自分自身を完成させる」を自覚する。

 しかし、ヨーロッパは精神の荒廃に陥っており、第一次世界大戦に突入し、戦争に駆り出されたシンクレールは負傷し、野戦病院のベッドの上で自分の辿った道を回想する。

 

デミアン』の各章のトピック

はしがき

”すべての人間の生活は、自己自身への道であり、一つの道の試みであり、一つのささやかな道の暗示である。どんな人も完全に彼自身ではなかった。しかし、めいめい自分自身になろうと努めている。(中略)だれでもみな、自分の誕生の残りかすを、原始状態の粘液と卵の殻を最後まで背負っている。(中略)われわれすべてのものの出所、すなわち母は共通である。”ーP.9

 

第一章 二つの世界

 シンクレールの家族は父母と姉がおり、信心深く、父の家は信仰により明るく保たれていた。一方で、外の世界、特に女中からもたらされる世俗の話には、悪と暴力とが広がっていることを漠然と感じていた。

 シンクレール少年10歳が近所の友達と連るんでいると、悪い評判しかない上級生の不良少年フランツ・クローマーが後からやってきてグループを乗っ取った。シンクレールは皆が順番に武勇伝を語る中で、リンゴを盗んだことがあると吹聴してしまう。

 リンゴ園の主人が懸賞金つきでリンゴ泥棒を探していたと、クローマーはシンクレールを脅してお金を要求し、仕方なく家からお金を盗んで支払うと、今度は父からお金を盗んでいることを弱みに、要求がエスカレートしていく。

 シンクレールは誰にも相談できず、ついには塞ぎ込み体調も崩し家族を心配させた。

第二章 カイン

 しかし、シンクレールが通うラテン語学校に年長のマックス・デミアンが転入してから状況が変わった。聡明で落ち着きのある気品を備えた彼は、先生に対しても毅然と応対したので、周りから注目を集めた。

 ある時の学校からの帰途、シンクレールはデミアンに声をかけられ、「カインとアベル」の物語について、カインの正当性を説く、聞いたことの無い異説の解釈を教えられた。

 シンクレールは聖書の外側にある解釈に興味をそそられ、またデミアンもシンクレールに近づこうとする意図があったので、誘導尋問にも似たようなやり方で、シンクレールは思わずクローマーの事を打ち明けてしまう。

 デミアンがどのような方法で問題を解決してくれたのかは分からないが、クローマーはシンクレールを付きまとうことを止め、そればかりか、シンクレールと通りで出会うと、こそこそと身を隠すようにまでなった。

 シンクレールは再び父の保つ明るい世界への従属を喜び、落ち着きを取り戻した。ある日、父との散歩中にカインの高貴さを説く解釈について訊ねると、カイン宗徒という邪教だから近づくなと忠告される。 

第三章 罪人

 シンクレールは聖書の外側にも世界があることを知ったが、デミアンとの接触は避けていた。しかし、教会での堅信礼の準備期間のクラスが一緒になったため、二人は再び関わりをもつ。

 堅信礼のための授業で、牧師が聖書の物語を解説すると、その帰り道でデミアンは別の解釈をシンクレールに語った。

 善と悪とで人工的に引き離された不自然な世界観ではなく、善と悪とを包含し、神に祈るのと同様に、悪魔の礼拝を行わなくてはならない。また、禁制に順応するのではなく、自分自身で律し、世界の半分をごまかして生きてはならないとデミアンは語った。

 シンクレールは幼年期より抱え込んでいた世界観、つまり、二つの世界によって黙殺された悪魔について、今まで誰にも話したことのなかった難問について、デミアンに打ち明けた。

 デミアンは結論を避け、しかしシンクレールがもう半分の世界を知ったのなら、思索し続けるべきだと促した。

第四章 ベアトリーチェ

 シンクレールは進学のために故郷を離れ、デミアン一家も旅立った。シンクレールはデミアンに対して憧れを抱く一方で、禁止された世界の暗部と向き合うきっかけを作った彼を恨んだ。

 学校の勉強はそこそこに、先輩に誘われるままに居酒屋の常連となり、自己破滅的な酒飲み騒ぎや猥談を繰り返し、そんな仲間を増やしていった。シンクレールは世間を軽蔑しながら、自身を貶める生活を送った。

 学校が休みに入り、故郷に帰省していたシンクレールは思いがけずデミアンと再会した。シンクレールは学生の飲み方に親しんでいることを示そうと、デミアンを料理店に誘い大袈裟にぶどう酒を注文した。デミアンはそんなシンクレールを軽蔑し、店を出ていってしまった。

 青年期らしい性欲と向き合う時期になった。そんなとき、公園を歩く一人の少女が目にとまり、女性を知らず奥手なシンクレールは彼女にベアトリーチェという仮の名前をつけ、彼女を崇拝することで淫欲と戦い性欲を浄化した。生活は一変し、規則正しくなり、それどころか僧侶の修行の趣までそなえた。

 ダンテのベアトリーチェの肖像を自作の祭壇に立てていたが、実際には公園の少女には似ていなかったので、シンクレールは絵の修行を始めた。何度も失敗を繰り返しながら、偶像の製作に没頭した。しかし次第に公園の少女の再現はあきらめて、夢想された顔の製作を進めた。最終的にはデミアンと自分の特徴を備えた女性の顔が完成した。

 シンクレールはその夜に不思議な夢を見た。自分の生家の前にデミアンと立っており、アーチ型の門の要石に刻まれている紋章を眺めていた。デミアンはそのハイタカの紋章を手に取ると、シンクレールに渡し、食べろと強要した。飲み込まれた紋章はシンクレールを内側から喰い拡がっていく、という夢だった。

 シンクレールはその夢を絵に描き、興奮のままにその絵をデミアンに宛てて発送した。

第五章 鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う

 シンクレールは真面目な生徒に戻って学校で授業を受けていると、本の中に挟まっている紙片を発見した。「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」という文句だった。

 デミアンからの奇妙な返信を受け取ったシンクレールは、その後の授業に集中できなかった。しかし、ヘロドトスの講義中に先生がふいにアプラクサスについて語り始めた。アプラクサスは神的・悪魔的なものとを結合する象徴的な使命をもつと先生は解説していた。

 アプラクサスについて調べようと本を漁るが、本からは何も得られなかった。また、シンクレールは繰り返し同じ夢を見た。夢で生家に戻った彼は、家の中で待つ母を抱こうとすると、それは母ではなく、いつか絵に描いた「夢想された女性」だった。

 シンクレールは翌年には大学進学を控えていたが、将来、社会の何と自身を結びつけたら良いのか分からず、ただひたすら孤独にアプラクサスと夢想された女性と共に生きた。

 シンクレールはある時、教会から漏れてくるオルガンの音色に惹かれ、オルガン奏者のピストーリウスと知り合う。彼は監督牧師の息子として生まれたが、キリスト教の範囲を越えて「人々はどのように神々を考え出したのか?」について思索するようになっていた。

 シンクレールはピストーリウスに導かれ、キリスト教の外側にあるグノーシスゾロアスタープラトンヴェーダについて学び、アプラクサスについて理解を深めていった。

第六章 ヤコブの戦い

 シンクレールはデミアンに送ったハイタカの紋章や、「夢想された女性」の夢を頻繁に見るようになった。「夢想された女性」は生家で自分の帰りを待つ母であり、デミアンと自分の外見的特徴を備え、愛人であり、売女、淫婦、半男半女のデーモンであり、アプラクサスだった。

 ある時、シンクレールはピストーリウスの見識に対し、「古本くさい」と暴言を吐き、彼に自身の夢を語るように促した。しかし、その言葉は彼を深く傷つけ、恩知らずな弟子は指導者を追い抜き、再び孤独を生きるようになった。

 シンクレールはいよいよ自身の額にカインの印があることを自覚し、自己の内面に意識を向けていく。キリスト教キリスト教圏の外側に真理を求めたり、新たな価値観で世界を認識することの不毛さを確信した。

”新しい神々を欲するのは誤りだった。世界になんらかあるものを与えようと欲するのは完全に誤りだった。目ざめた人間にとっては、自分自身を探し、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、”ーP.168

”各人にとってほんとの転職は、自分自身に達するというただの一事あるのみだった。詩人として、あるいは気ちがいとして終わろうと、予言者として、あるいは犯罪者として終わろうと-それは肝要事ではなかった。”ーP.168

”任意の運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだけだった。ほかのことはすべて中途半端であり、逃げる試みであり、大衆の理想への退却であり、順応であり、自己の内心に対する不安であった。”ーP.168~169

第七章 エヴァ婦人

 大学への進学前に、シンクレールは休暇に再び生まれ故郷に戻った。そしてデミアンが住んでいた貸家に向かい、大家の老婦人にデミアンの家族について訊ねた。

 老婦人は皮のアルバムからデミアンの母親の写真を見せてくれた。彼女はシンクレールがずっと夢に見ていた「夢想された女性」だった。

 大学へ入学したシンクレールはその後、デミアンとの邂逅を果たし、家へ招待される。デミアンの家にはいつかシンクレールが送った「ハイタカの絵」が飾られており、「夢想された女性」デミアンの母も彼を快く迎え入れた。

 デミアンの母は、親しい人たちにしか許されていない呼称である「エヴァ婦人」の名をシンクレールに明かす。シンクレールは興奮のままにデミアンに対し「万物の母のようだね」と形容する。

 カインとして追放されたシンクレールは、放浪の末についに「万物の母」への帰還を果たす。シンクレールはデミアン親子と自身の目的を明確にしていく。一方デミアンは古い世界の崩壊を予見する。

第八章 終わりの始まり

 ついに開戦も間近になり、事前に兆候をつかんでいたデミアンは士官として出征する準備を整えていた。まもなく、戦争が始まり、シンクレールも戦地に赴いた。

”根本の感情は、どんなに激しいものでも、敵に向けられてはいなかった。その血なまぐさいしわざは内心の放射にすぎなかった。新たに生まれうるために、狂い殺し滅ぼし死なんと欲する、内的に分裂した魂の放射にすぎなかった。巨大な鳥が卵から出ようと戦っていた。卵は世界だった。世界は崩壊しなければならなかった。”ーP.213

デミアン』の主題

 カイン主義にはじまり、アプラクサスにゾロアスター教ヴェーダニーチェまで扱っているのですが、それらは「自己自身の道」への寄り道として描かれています。

 自身の中にある罪の意識や悪の芽生えが、「リンゴを盗んだという嘘」から始まっていることも、キリスト教圏では「リンゴ」が大きな意味を持ちます。リンゴ⇒智恵⇒ソピア(グノーシス派の叡知の女神)⇒アニマ(ユング心理学における原型の一つ)⇒母なる大地(地母神信仰)と、連想していくことが出来ます。

 神話「カインとアベル」ですが、カインが農作物をアベルが子羊を主への供物として捧げたときに、主がアベルの供物のみを受け取ったことに嫉妬したカインが、アベルを殺してしまったという物語です。この時、グノーシス派では、カインは罪の烙印を受け、死後も神に召されることなく苦しみの世界に輪廻し続けるとしています。

 私の個人的な歴史観を言えば、この世界が戦争(人殺し)を繰り返すのは、農耕の始まりとともに、土地の所有権を主張したことに争いの起源があると考えています。遊牧民や狩猟採集の時代にも縄張り争いはあっただろうと思いますが、自然の中に間借りしているという謙虚な態度がないかぎり、人類は殺し合うしかないと思っています。

 キリスト教では「知恵の実」を食べてしまったことが原罪ですが、カインの子孫では「土地の所有」が苦しみの始まりです。

 

 人類最初の人殺し・兄弟殺しを扱う神話「カインとアベル」ですが、当時のヨーロッパでは同胞であるキリスト教徒同士が殺しあっている状況でした。『デミアン』を読む上では異端という意味よりも、こちらの方が意味が大きいと私は思っています。

 また、カインもアベルもアダムとイブ(人類の母)の子供なのですが、カインは兄弟殺しの罪で追放されます。そして、シンクレールはエヴァ婦人の元に帰って来たように描かれていますが、エヴァ婦人は人類の母ではなく「万物の母」です。

 「夢想された女性」がエヴァ婦人として、実際に目の前に立って言葉をしゃべるのは、物語としては感動的なシーンですが、その像は既にシンクレールの内側にあったことが重要です。

 最終的にシンクレールはカインの烙印を自身の額に感じ、エヴァ婦人の元へと帰還しているように描かれていますが、カイン宗徒への改宗という意味ではなく、途中で示されているグノーシス的発想も全てきっかけに過ぎず、「自己の更新」に主題があります。

 

デミアン』とグノーシス(「本来的自己」の認識)

 グノーシス(認識)主義では、自身の内側にある「神的火花」を知覚し、宇宙のあり様を理解し、「本来的自己」を認識することを目標とします。

”気ちがいだって、プラトンをしのばすような思想を生み出すことは出来る。ヘルンフート派の学校の小さい身心深い生徒でも、グノスティック派の人々やゾロアスターに現れる深い神話学的な関連を創造的に考える。だが、彼はそれについてなにも知らない。それを知らないかぎり、彼は木か石か、もっとも良い場合でも動物に過ぎない。この認識の最初の火花がほのめいて来るとき、彼は人間になる。”ーP.140

 シンクレールの先生となったピストーリウスの言葉ですが、ここで「認識の最初の火花」と説明されているのがグノーシス(認識)において重要な教義になります。グノスティック派は世界のあり方を正しく認識することを重要視します。

 しかし、『デミアン』の主題となっているのは、世界のあり方を正しく認識することではなく、自分自身の完成を目指して進むことです。そしてその時に自己を更新するために必要となる材料は、「万物の母」として、既に自己に内蔵していると読むことが出来ます。

”新しい神々を欲するのは誤りだった。世界になんらかあるものを与えようと欲するのは完全に誤りだった。目覚めた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、”ーP.168

 弟子であるシンクレールはこのように、先生であるピストーリウスを越えて行きます。

 「万物の母」をなんらかの女神に結びつけて読むことも可能です。例えばグノーシス神話における女神ソピアに結びつけることも出来ますが、そんなことをしてしまうと、堂々巡りになってしまいます。

 この場合、万物の母は「母なる大地」と結びつける方が妥当だと思われます。

 

 「本来的自己」や「神的火花」はグノーシス的発想ですが、グノスティックでは認識(グノーシス)に重きを置きます。しかし、ヘッセはそれらを越えて自己更新に意味を求めます。

 「世界がどうあろうと、自己の完成を目指す」が、ヘッセのメッセージです。

 

 また、偽名を使って発表した経緯も、キリスト教圏ではかなりショッキングな内容の作品であったためだと推察します。

 作中で「アプラクサス」と表記される神がいますが、グノーシスの神はABRAXAS(アブラクサス)で、プとブの違いがあります。数秘術的な意味が込められているので、BとPは置き換えできません。これは、訳者のなんらかの配慮なのか、訳者の持っていた辞書が違うのか、発音的にはプの方が近いのか、分かりません。

 

デミアン』と『ガラス玉演戯』との関連性

 『ガラス玉演戯』においては、「三つの履歴書」が『デミアン』と対応しています。「三つの履歴書」では、古今東西の宗教観を同列に置き、公分母を求めています。

 また、『デミアン』は第一次世界大戦中の作品ですが、『ガラス玉演戯』は第二次世界大戦中の作品です。両方とも戦争中に執筆されたのですが、混乱のどさくさに紛れてかなり危険な物語が展開されていることも、両作の共通点です。

 

「雨ごい師」
 キリスト教以前の呪術信仰。ジェームズ・フレーザー著『金枝篇』で紹介されたような、雨乞いの儀式、雨司、レインメーカーとしての司祭王、女神ディアーナ(ダイアナ)信仰のような地母神信仰。

「ざんげ聴聞師」
 西方グノーシスキリスト教グノーシス派。グノーシス主義。デミウルグ(造物主)。デミウルゴスとは偽の神の意味で、グノーシス主義キリスト教からは異端として考えられています。

「インドの履歴書」
 東方グノーシス。広義のグノーシスキリスト教からすると異教徒。キリスト教グノーシス派はキリスト教内の異端ですが、こちらは全くの別の宗教の考え方で、作中では主に輪廻転生を扱っています。

 

「三つの履歴書」

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