Das Glasperlenspiel

○ドイツの小説家へルマン・ヘッセの大作「ガラス玉演戯」を考察しています。ヘッセの他の著作についても、「ガラス玉演戯」と絡めて解説します。

三つの履歴書 主人公の学生時代の研究①

 小説『ガラス玉演戯』では、主人公ヨーゼフ・クネヒトの遺稿として、「三つの履歴書」というものが収録されています。こちらは主人公がガラス玉演戯名人として大成する前に、学生時代の研究課題として提出された創作です。現在で言うところの研究論文のようなものです。

 それぞれ、「雨ごい師」「ざんげ聴聞師」「インドの履歴書」としてタイトルが付けられ「その時代に自分が生きていたら?」と空想・妄想する仮構的自叙伝です。

 主人公はこれらの作品を教育州に研究の成果として提出すると、「今度はもっと歴史的に近く、記録が豊富にあるテーマを選ぶように」と言われ、その後は18世紀の敬虔主義の研究を始めます。

”生徒は、ある環境と文化の中に、いずれかの昔の精神的風土の中に自分を移し、その中で自分に相応する生活を考え出す、という課題をあてがわれた。”ーP.93

 事前にこの三作品について扱っておいた方が、小説『ガラス玉演戯』の理解に役立つと思いましたので、まず先に取り上げてみたいと思います。

 

 

[ガラス玉演戯]の態度 

 ここで『ガラス玉演戯』を読む上で、大切にしなければならない態度を示します。それは、

「[ガラス玉演戯]は信心深い方たちの祈りを妨げてはならない。」

 という態度です。これは本作には書かれていないことですが、私はヘッセのメッセージとして抽出し、心がけています。私以外の他の読者に強要できる内容ではありませんが、私のブログでは基本的にこの考え方を大切にし、記述されているものと思ってください。

 そして、古代の信仰や神話や聖人の伝説を単に「物語」として扱うことは、場合によっては信仰に対する冒涜を含んでしまいますが、私としてはそのような意図はなく、またかなり乱暴で短絡的な見解を示すこともありますが、ご容赦ください。

 

三つの履歴書の概略

 この履歴書(創作小説)では、キリスト教とは異なる価値観が示されています。

 また、英語での履歴書(英:resume)には、再開、取り戻す、回復する、といった意味があります。ドイツ語でも同様の意味があるのかは分かりませんが、経歴書という意味よりは、そのような意味で読んだ方が良さそうです。

「雨ごい師」

 キリスト教以前の呪術信仰。ジェームズ・フレーザー著『金枝篇』で紹介されたような、雨乞いの儀式、雨司、レインメーカーとしての司祭王、女神ディアーナ(ダイアナ)信仰のような地母神信仰。

「ざんげ聴聞師」

 西方グノーシスキリスト教グノーシス派。グノーシス主義。デミウルグ(造物主)。デミウルゴスとは偽の神の意味で、グノーシス主義キリスト教からは異端として考えられています。

「インドの履歴書」

 東方グノーシス。広義のグノーシスキリスト教からすると異教徒。キリスト教グノーシス派はキリスト教内の異端ですが、こちらは全くの別の宗教の考え方で、作中では主に輪廻転生を扱っています。

 

グノーシスとは何か?

 グノーシスとはギリシャ語で「認識・知識」のことを意味します。グノーシス主義には以下の共通点があります。

反宇宙的二元論

 この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善なる「至高者」が存在する。

霊肉二元論

 人間の魂は「至高者」の一部なので善性を備えている。しかし、人間の肉体を含めたすべての物体は悪であり、魂は呪われた肉体に囚われている。

「本来的自己」の認識

 自身の内側にある「神的火花」を知覚し、宇宙のあり様を理解し、「本来的自己」を認識することを目標とする。

 

 グノーシスでは、人間の魂は神の一部として神聖を備えているが、呪われた肉体に囚われているため、輪廻を抜け出せず苦しみの中にあると説きます。

 この時、呪われた肉体と輪廻の起源をどこに求めるか?については、様々です。カイン宗徒は兄弟殺しの罪の烙印で神に召される資格を失い、ディオニュソス教は邪悪な巨人族の死灰が混ざっているため、などです。

 オルフェウス教やプラトンイデア論、神智学やニューエイジ神秘主義やオカルト、昨今のスピリチュアリズムに至るまで、すべてをグノーシスを起源に繋げてしまうことも可能です。

 このとき、キリスト教以前の宗教観なのか、キリスト教の聖書をねじ曲げた思想なのか、キリスト教圏の外側にある別の宗教体系なのかによって大別されます。

 

「雨ごい師」

”幾千年も前のことであった。女たちが支配していた。種族でも、家庭でも、尊敬と恭順とを示されているのは、母や祖母であった。生まれたときでも、女の子のほうが男の子よりずっと重んじられた。”ーP.392

 

 キリスト教からは邪教として認められない古代の呪術信仰の時代を選んで、「その時代に自分が生きていたら?」と空想・妄想する仮構的自叙伝です。

 医療が発達していない古代において、集落の維持・発展には出産・子育てが最重要課題です。男たちが狩猟に出ている間、集落を守っているのは女性たちであり、男は出産を経験できず、子育ての主体は女性です。未だ国の形を成していない、小規模の集落において、集団の意志決定は女性たちが行っていたとするヘッセの考えには私も賛成です。

 また、キリスト教圏に限らず、「母なる大地」を崇める地母神信仰は世界中にありました。日本の神道においても女神の性質は隠されています。男性優位の考え方からすると脅威なので弾圧されたと思っています。

 しかし、巫女の用いる巫術は秘密裏に継承され、一部はマリア信仰を隠れ蓑に受け継がれていると思っています。世界中にあるマリア信仰は土着の地母神信仰と合習されているので、統一感がなくバリエーションも豊富です。(と、私は考えています。)

 また、呪術信仰の全てがそうではないのですが、古代の信仰には人身御供を要求する儀式もあり、「雨ごい師」でもテーマのひとつとして扱われています。 

 

「ざんげ聴聞師」

”被造物を、そしてそれとともにアダムと認識の木を造った神は、唯一の最高の神ではなくて、神の一部、あるいは神の下位の神、デミウルグ〔造物主〕にすぎない。”ーP.451

 

 グノーシス主義の偽りの神・デミウルゴスについて語られています。極論すると、「世界がこれほどまでに争いや貧困や悲しみに満ちているのは、唯一最高の神ではなく、偽りの神・デミウルゴスがこの世界を造ったからだ。」という主張がキリスト教グノーシス派です。

 これに対し、ヘッセの考えるキリスト教側の反論はこうです。

”神がわれわれに絶望を送るのは、われわれを殺すためではなく、われわれの中に新しい生命を呼びさますためだ”ーP.457 

 

 また、グノーシス主義に対して寛容さを示して、優しく諭します。

”古い祖先の知識に由来している信仰は、当然尊敬すべきものなのだ。”ーP.449

”彼らは、心がけがよくない、善良でもない、高尚でもない。利己的で、みだらで、高慢で、怒りっぽいことは確かだ。しかし、実際、根は無邪気なのだ。子供が無邪気であると同様に、無邪気なのだ。”ーP.452

 

 世に言う秘密結社は古代の土着信仰を復活させようと試みるのですが、一神教からすると古代の神を復活させられては困るので悪魔崇拝扱いをして否定します。

 しかしヘッセはこのグノーシス主義に無邪気さを見て、遊戯的に[ガラス玉演戯]に取り込んでいます。この辺りの知識を事前に分かっておかないと小説『ガラス玉演戯』を読み進めることが難しくなります。

    

「インドの履歴書」

”願うのは、この回転する車輪を、このはてしない画面を停止させ、消滅させることであった。”ーP.490

 

 こちらは東方グノーシスで、広義のグノーシスキリスト教とは別の宗教観です。

 グノーシスについては説明するのが難しいのですが、キリスト教内における異端の考え方はキリスト教グノーシス派のグノーシス主義です。

 キリスト教の外側にあるグノーシス的発想の異教徒については、グノーシス主義とは言わず、単にグノーシスと扱うようです。この場合では、偽りの神・デミウルゴスは登場しません。デミウルゴスキリスト教グノーシス派における造物主です。

 東方グノーシスと西方グノーシスにおいて、共通しているのは「不滅の魂」です。東方グノーシス、特にインドの宗教観では輪廻転生する魂が説かれています。

 仏教はグノーシスではありません。そして、開祖の釈尊は輪廻転生についてはあまり言及していません。

 ですが、輪廻転生の概念を理解するために仏教の教えを参考にすると、人間が何度も転生し人生をやり直すのは魂を鍛えるためで、魂を育てることで来生ではステップアップして別の課題に取り組み、この永遠に続く転生を繰り返して煩悩を克服し、涅槃に達するという教えです。その間は生・老・病・死など四苦八苦を繰り返します。

 

”その死は、本当の死滅ではなく、だんだん物質から離脱し、肉体的な物体と機能が消える一方、生命はいよいよもっぱらなまなざしと、くぼんでいく老人の顔の静かな輝きとの中に集中していくことであった。”ーP.238

 

まとめ 「三つの履歴書」と『デミアン

 『デミアン』でも古今東西の宗教を遍歴しながら、最終的には「目覚め」、「本来的自己」を目指します。そして、『ガラス玉演戯』では、「三つの履歴書」は主人公ヨーゼフ・クネヒトが演戯名人となる前の、学生時代の研究として紹介されています。

 『デミアン』の主人公シンクレールは、最後には戦争に飲み込まれていく様子が描かれていますが、『ガラス玉演戯』の主人公クネヒトはこれらを発展させ、同列に置き、還元していく物語になっています。

 グノーシスはインテリ層に人気のあった思想で、現在でも理知的に学問で真理を探求しようとする人たちも、陥りやすい思想です。仏教の教えに哲学を求める読み方もあります。

 私としても、別にグノーシス主義を否定するわけではないのですが、グノーシス主義はどうしても「既存の価値観の否定」から始まります。過去に生きた人々の苦難や迷いや混乱を無視し、まるで、「空気中から自分が産まれた」かのような傲りがあり、人類の過ちを自身に結びつけることを嫌って別のものに押し付け、自身の正しさを保とうとする傾向があります。

 過去に起こった混乱でさえ、現在の私たちの社会の形成には必要不可欠でした。犠牲になった人たちに報いるためにも、過去に生きた人たちの功罪を、現代人が断罪することはできません。

 

村上春樹作品とグノーシス

 私は当ブログ以外に、村上春樹作品の考察ブログも運営しているのですが、グノーシスに関する過去記事もありますので、より深く調べたいかたは参考にしてください。

 

古代人の宗教観

while-boiling-pasta.hatenablog.com

オルフェウス

while-boiling-pasta.hatenablog.com

ディオニュソス

while-boiling-pasta.hatenablog.com

プラトンイデア論

while-boiling-pasta.hatenablog.com

ピタゴラス教団

while-boiling-pasta.hatenablog.com

 

 基本的に村上春樹作品では、意識と肉体とを分離し、幽体離脱を目指そうとするお話が多いです。古代の信仰や蛇信仰も扱い、肉体に囚われた精神を解放しようとします。

 著者は日本人で出自も仏教とも縁深いので、単純に東方グノーシスの立場を取れば良いのですが、キリスト教と反目しようとする傾向もあり、西方グノーシス的立場に読めてしまいます。

 ここら辺は、読者ひとり一人が判断すれば良いことなので、明言は避けますが、この傾向はデビュー作から強く現れています。キリスト教側から見れば、東方グノーシスはただの異教徒なのですが、西方グノーシス悪魔崇拝です。