Das Glasperlenspiel

○ドイツの小説家へルマン・ヘッセの大作「ガラス玉演戯」を考察しています。ヘッセの他の著作についても、「ガラス玉演戯」と絡めて解説します。

『シッダールタ』シッダールタとゴータマ 二人のブッダ

 へルマン・ヘッセの作品のなかでも特に人気があるのが『シッダールタ』です。世界中の言語に翻訳され、インドでも人気があるそうです。
 本作の主人公であり、タイトルにもなっている「シッダールタ」ですが、これは仏教を開いたブッダの出家前の名です。なので、ブッダ(覚者)が悟りを得るまでの物語として紹介されることも多いのですが、実際にはヘッセの創作したフィクションです。
 こちらの物語は、仏教を含めたインドの宗教や哲学をヘッセが独自に解釈し、「シッダールタ」の名前を借りて自身の宗教体験を告白する二次創作のような作品になっています。

 

ゴータマとシッダールタと釈迦とブッダ

 釈尊の本名はゴータマ・シッダールタで、釈迦族クシャトリヤ(ヴァルナ制における第二位の王族階級)の王子なのですが、ゴータマの姓はバラモン(カースト制における頂点の司祭階級)であることを示しおり、矛盾が生じています。
 また、シッダールタは「目的を達成した人」の意味があり、あまりに都合が良すぎるため、後付けの可能性が検証されています。弟子や仏教徒の暴走を心配します。
 釈迦牟尼世尊釈迦族の聖者の意味があり、お釈迦様や釈尊もすべて由来は同じです。世尊は「世に尊ばれる人」の意味です。 
 仏陀(ブッダ)という呼称は本来、インドの宗教における聖者や修行者を指し、「目覚めた人」を意味する普通名詞でしたが、仏教は他の宗教(六師外道)との布教争いをし、また仏教徒による釈迦の神格化が進み、ブッダは仏教における釈迦の固有名詞となりました。「釈迦ただ一人を仏陀とする」は仏教における教えです。「目覚めた人」の意訳は覚者です。

 本作の主人公はシッダールタですが、バラモン僧の息子として登場します。釈迦族ではないので、釈尊とは違います。また、本作ではシッダールタとは別に、ゴータマ・仏陀が登場します。「ゴータマ、仏陀釈迦族の賢者」と形容されていますので、こちらの方が釈尊に近いです。

あらすじ

 バラモン僧の息子として生まれた主人公のシッダールタは、生け贄を前提にアートマン(真我:宇宙と一体になれる自我)を得ようとするバラモンの教えに疑念を抱き、父の反対を聞かず家を捨て、友人のゴーヴィンダを伴い森に入り、巡礼の苦行者・沙門となった。
 しかし、断食やヨガなどの厳しい修行をしても、先輩の沙門たちも輪廻の輪を抜け出せず、涅槃に達しないことを知った。苦行により体を痛め付けても、自我(真我ではない、個人的な我)を麻痺させるだけの一時的な逃避にすぎないことを知った。
 一方で、ゴータマという仏陀(覚者)の存在が噂され、彼は前世を記憶し、涅槃に達し、輪廻の車輪を止めたという評判が伝わり、シッダールタとゴーヴィンダは沙門の苦行を止め、ゴータマを訪ねる。
 ゴーヴィンダはそのままゴータマに帰依するが、シッダールタはゴータマの「縁起(因果)説」に納得するも、輪廻と解脱の教えが明示されず、不満を告げてゴータマの元を去る。
 ゴータマの元を去ったシッダールタは世俗にまみれ、庭園の女主人・カマーラとの愛欲に、商人のカーマスワーミと金儲けに興じ、その後は虚しさに耐えかねて入水自殺を図ろうと川に向かう。
 しかし、そこで川が何かを語りかけているように感じ、思いとどまり、かつて彼の旅を助けてくれた川の渡し守を訪ね、渡し守・ヴァズデーヴァの元で川の声を聴くことを学ぶ。
 渡し守の助手として何年か過ごした後に、ゴータマの危篤が知らされ、涅槃に立ち会おうと多くの崇拝者が渡し場に訪れた。その中にはシッダールタのかつての愛人・カマーラも居り、彼女はシッダールタとの間に生まれた息子を連れていた。
 しかし、カマーラは渡し場にたどり着く直前に毒蛇に噛まれ、助けを求める声に駆けつけたヴァズデーヴァが小屋に連れ帰った。シッダールタはカマーラとの再会を果たすが、介抱もむなしくカマーラは亡くなる。
 シッダールタは息子を育てようとするが、甘やかされた少年は渡し守の生活は出来ず、ついには脱走する。シッダールタは息子を追ってカマーラの庭園に着くが、門の前で佇み息子への愛を諦め、迎えに来たヴァズデーヴァと渡し場に戻る。
 シッダールタは、かつて自分が父を失望させたように、今は自分が息子に苦しんでいることを知り、宿命的な輪廻を感じた。その時彼は、川に笑われたのを聞き、ヴァズデーヴァに促されさらに傾聴すると、川の中に父や息子や様々な人の姿を見つけ、千の声と統一とを聴いた(観音)。
 シッダールタが川の声を聴くまでに至ると、ヴァズデーヴァは「私は森の中に入る。統一の中へ入る」と告げ、シッダールタを残して去っていった。
 「川の渡し場に老賢者がいる。」シッダールタの存在は周囲に知れわたり、ゴータマの弟子にして、年配の僧からも敬われる存在となった老ゴーヴィンダの耳にもその噂が伝わった。 
 未だ迷いの中にあり、さぐりを求める老ゴーヴィンダは渡し守を訪ね、彼がかつて袂を分けたシッダールタだと知ると、再会を喜び、見識を求めた。
 老シッダールタは、あるがままの世界を受け入れるために、ゴータマが否定した愛を説き、愛と梵(宇宙の真理)とを同義にとらえる考えを示した。
 そして、シッダールタは自分の額に口づけをするようにゴーヴィンダに促し、無数の生死を越えた同時性の微笑の中に、いつか彼が愛したことのあるいっさいのものを、彼に思い出させた。

『シッダールタ』と仏法の関係

 これより先は、『シッダールタ』と釈尊の教えについて考察しますが、本作がへルマン・ヘッセの宗教体験の告白であるのと同様に、こちらはあくまでわたし個人の覚え書きで、仏法を解説するものではありません。 
 間違いがありましたら、是非、コメントにてご指摘・ご教授頂けると、とても有り難いです。

 シッダールタはゴータマに別れを告げ、自分の道を進みますが、仏法を否定したわけではなく、ヘッセは「自身の完成=悟り」として、シッダールタを仏教に帰依させたのだと私は読んでいます。
 仏教にもメシア信仰・弥勒菩薩の救済を待つ態度がありますが、現在は地蔵菩薩による加護と慈悲のもと、私たちの生活が営まれています。

”あすは、もう生きていないとしても、
きょうは、こうして生きているのだ!”
ー『ヘッセ詩集』「夜の感情」より抜粋

 詩の一部を抜粋しても、その意味は全く失われてしまいます。しかし、ヘッセの態度は「生きている間は、生き続けなければならない」であり、ヘッセにとって「生きる」とは、「生活することと自己更新」
です。

諸行無常

”この水は流れ流れ、たえず流れて、しかも常にそこに存在し、常にあり、終始同一であり、しかも瞬間瞬間に新たであった。”ーP.108

”「おん身の言おうとすることはこうだ。川は至る所において、源泉において、河口において、渡し場において、早瀬において、海において、山において、至る所において同時に存在する。川にとっては現在だけが存在する。過去という影も、未来という影も存在しない。」”ーP.114

 世俗にまみれ空虚さに耐えきれず、川で自ら命を絶とうとしたシッダールタは、川が何かを語りかけている錯覚におそわれます。 渡し守・ヴァスデーヴァがシッダールタの感じたことを解説してくれますが、日本人に馴染みの深い『方丈記』からも同じ内容を引くことができます。

”ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。”

ー『方丈記』序文より引用

 河を構成する要素である水は常に入れ替わっていて、私たちが見ている川は、過去や未来にも同じ形(色)であったとしても、水は別物です。仏教で言うところの「無常」です。
 そして、入れ替わり続けるのは川の水だけではありません。

諸法無我

 ”よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年も会わずにいれば、分子レベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてのあなたの一部であった原子や分子はすでにあなたの内部には存在しない。
 肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子レベルではその実感はまったく担保されていない。”ー福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』P.163  

 分子生物学者、福岡伸一教授の動的平衡論です。この私を構成する要素はそっくり入れ替わっているにも関わらず、根拠もなく「私が私であろうと固執すること」が自我です。また、仏教で戒める「我執」です。
 仏教の「諸法無我」では、永遠に変化せず・独立的に自存し・中心的な所有主として・支配能力があると考えられるような我(≒アートマン)の実在を否定します。

梵我一如

 仏教以前のインドの宗教では、例えばリグ・ヴェーダなどでは、バラモン僧はこのアートマン(真我)と、ブラフマン(梵:宇宙の真理)とを、一体にすることを目標にしています。これが「梵我一如」です。
 アートマンには本来的・本質的な自分(あるいは不変の魂)という意味もありますが、ある種の錯覚と傲りを含んでしまいます。「どこかに本当の自分があるはず」という錯覚です。そして、博学なバラモン僧は理知的に宇宙の真理を追い求めます。
 バラモン教の「梵我一如」はとても扱いが難しく、「諸法無我」で釈尊アートマンの実在を無視しているようですが、アートマンの解釈は宗派によって異なるようです。しかし、「諸法無我」を学ぼうとすると、知識としてアートマンの概念を理解しておく必要が生じます。 

自他一如(物我不二)

 一方、我執を戒め無我を説く仏教では、「自他一如」を教えます。仏教で説くのは「私と私以外を隔てるものは無い」です。私が川と同様に現在しか持たないのであれば、過去を引き継ぎ未来に願うことは、錯覚であり迷いとなります。未来に向かって、完全なる宇宙と自分とを追い求めるのではなく、シッダールタ(あるいはヘッセ)は、「わたしもあなたも川も」の中に悟りの境地を見ています。
 「梵我一如」も「自他一如」もゴールは一緒のようで、アプローチとプロセスが異なります。作中でも、ゴータマは解脱について教えを示しませんでしたが、釈尊も無我を説きますので、アートマンが不確かな存在になり、輪廻・解脱・涅槃を語れなくなります。
 
 このとき仏教の「自他一如」とは自己と他者のみを言い、「他」に物や自然物や現象を含めてよいのかどうか?は、専門家ではない私には分かりませんでした。宗派によっても違うのでしょうか?

ヘッセの理想像・渡し守ヴァズデーヴァ

 ヘッセは著作を通して、繰り返し読者に対して訴え続けているメッセージがあります。それは、「自分自身の完成を目指せ」です。 そして、読者である私がヘッセ自身の完成・理想像を考えるとき、渡し守・ヴァズデーヴァこそヘッセの追い求めた姿ではないかと思っています。
 人間は誰しも自身の完成を目指し、それぞれの道を歩む旅の途中です。時に障害物として大きな川が目の前に立ちふさがることもあります。ヘッセは旅人や読者に一つの目的地を示すのではなく、それぞれの道を進んでもらうべく、渡し守を理想像としているのではないでしょうか。
 このとき、シッダールタにとってのアートマンは、渡し守・ヴァズデーヴァとなります。ヴァズデーヴァの登場は、世俗で煩悩にまみれ、虚しさに満たされ、自死を決意した時です。そして、その後はシッダールタに寄り添い導きます。常に傍に居たことが重要です。
 詩人へルマン・ヘッセにとって「川の声を聴く渡し守」は、完成された理想像です。この完成された理想像は、シッダールタが川の声を理解した時に、森の統一へ帰っていきます。
 これは、ヘッセによるアートマンの擬人化や曲解ではなく、一読者である私個人の深読み・読み間違い、こじつけです。

縁起・因果関係

 目の前の川は、海で温められた水が、水蒸気となって雲となり、雨となって大地に降り注ぎ、河口を目指して流れているので、私たちの目に見えている川は、多くの水が集まった一つの現象(色)であり、「縁起(因果)」によって形づくられているだけです。
 川は旅人にとっては障害ですが、そのことが渡し守にとっては生活の糧となります。洪水は多くのモノを奪いますが、山の肥沃な土を里にもたらします。川の流れに何を見るかは人それぞれです。これが仏教で言うところの「縁起(因果)」です。
 この「縁起」によって、形づくられ・見られているものが色(現象)です。

色即是空

 般若心経における「色即是空」では、川は「縁起」によって形づくられ・見られている現象(色)なので、川に実体は存在せず、時々刻々と変化しているものであり、「不変なる川は存在しない⇒空」とします。
 ならば、私はどうでしょうか?川が「縁起」によって形づくられ・見られている現象(色)ならば、自我も縁起によって形づくられ・見られている現象(色)となります。自我を形成する縁起となっているのは、何を食べているか?と、「過去をどのように理解し、未来に何を願うか?」です。私の縁起を滅することができれば、「川も私も」となり、「私と私以外を隔てるもの」が無くなります。
 
 煩悩にまみれた私は、過去を後悔し未来を夢見るので、しばらくは「わたし」を保てそうです。ですが、過去も未来もなく、現在しかないのだとしたら…。何だかとてもお腹が空いてきました。

ヘッセの結論 色界に停まる

”おん身の石、木、川――それらは一体実在であろうか」
「それもさして私は意に介しない。物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は常に私の同類だ。物は私の同類だということ、それこそ、物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だから私は物を愛することが出来る。”ーP.154

”愛こそ、おおゴーヴィンダよ、いっさいの中で主要なものである、と私には思われる。”P.ー154

”世界を透察し、説明し、けいべつすることは、偉大な思想家のすることであろう。だが、私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物と賛嘆と畏敬をもってながめうることである。」”ーP.154 

 かなり長い引用になってしまいましたが、この部分がヘッセとシッダールタの結論になります。
 『シッダールタ』は第一次大戦の停戦後まもなく執筆が始まりました。当時のヨーロッパでは、信仰を疑う人たちも現れ始めグノーシス主義への転落、厭世主義、諦観とニルバーナ(涅槃)思想が蔓延し、仏教における四諦も「生を否定」する文脈で取り込まれました。
 シッダールタはゴータマ・仏陀より四諦と八正道の教えを聞いていますが、その上でゴータマの前から去ります。また、釈尊の戒めた愛を肯定し、世界と自身とを愛によって結びつけようとします。
 ここに「色界」にとどまろうとする、あるいは「色界」を目指そうとする態度が伺えます。

「色界」とは

”無色界・色界・欲界の三界の内の第二の世界。欲界のように欲や煩悩はないが、無色界ほど物質や肉体の束縛から脱却していない世界。”ー辞書より

 釈尊の教えでは、色(現象)に惑わされることなく、空(≒無色界)を目指すように説かれているのですが、ヘッセとシッダールタはあるがままの世界を受け入れるために、梵(宇宙の真理)と愛とを同義にとらえます。このため、『シッダールタ』は釈尊の悟りとは異なると私は思っています。
 
 そもそも、へルマン・ヘッセは詩人であり、詩人の完成は世界をあるがままに、生も死も肯定的に受け入れ表現することです。
 死後の世界や救済や涅槃については気に留めず、仏法から現世利得を抽出したのが『シッダールタ』だと私は読みました。
 地蔵菩薩の慈悲にすがり、加護を授かる方法は、今を精一杯に生きることです。

 

『シッダールタ』と[ガラス玉演戯]の関連性

 『ガラス玉演戯』では、「東方巡礼者」というキーワードが登場するのですが、ヘッセは仏教の開祖である釈尊もこの一団に加えています。
 このとき、実際の釈尊がどうであったか?ではなく、ヘッセが仏教と仏陀をどう見たのか?が重要になりますので、『シッダールタ』を頼りに、ヘッセの仏教観を知る必要があります。
 
 また、ローマ教会の権威やヒエラルキーに対する抗議としてプロテスタントがありますが、ヘッセは「仏陀プロテスタント」と述べています。これはバラモン教の保っていたヒエラルキーを、仏陀が否定したためだと私は考えています。
 ヘッセの宗教観は、良くも悪くもヒエラルキーを尊重する傾向があります。プロテスタントではセクトが乱立し、すり合わせもしないので中心を欠き、どこまでも分裂していく危険性があります。
 ヘッセはこのプロテスタントの美徳でもある、並列な態度を危惧しています。ヘッセはもちろん階級や権威を尊重するわけでもないと思いますが、中心と統一とを求めるには、秩序が必要です。
 昨今でも、「異なる価値観を尊重し」ですが、どちらかといえば「わたしの価値観を尊重しろ!」と一方的な価値観を世界に押し付け、相互理解というよりは無秩序に誘導するような文脈で用いられています。
 [ガラス玉演戯]が志向するのは、秩序と調和、統合の発展です。公分母となるような価値観を共有しないことには、「誰かの不幸を前提とした私の幸福」しか得られません。
 自身の幸福を願うのであれば、「わたしもあなたも川も」です。