Das Glasperlenspiel

○ドイツの小説家へルマン・ヘッセの大作「ガラス玉演戯」を考察しています。ヘッセの他の著作についても、「ガラス玉演戯」と絡めて解説します。

敬虔主義と陰陽五行思想 主人公の学生時代の研究②

 主人公のヨーゼフ・クネヒトは、研究時代にその成果として「三つの履歴書」を提出しますが、その後は18世紀の敬虔主義を研究し、また、シナ語を研究している老兄を訪ねて易経を学びます。

 この敬虔主義研究は特に、ルター派プロテスタント神学者、ヨーハン・アルブレヒトベンゲルという聖書学者に関するものです。

 そして、易経とは陰陽五行思想を基本にした、64卦の竹板を用いる占いのことです。キリスト教圏では、善と悪とを明確に分けてしまうので、陰陽のバランスという発想に乏しいです。

 

 

ドイツ敬虔主義 ヨーハン・アルブレヒトベンゲル

 「三つの履歴書(創作小説)」を教育州に提出した主人公は、学校側からの忠告にしたがって、今度は新たに18世紀の敬虔主義について研究を始めます。

 このヨーハン・アルブレヒトベンゲルルター派の敬虔主義者で聖書研究を行った人物です。本文批評の原則を最初に確立した学者です。

 

”ほんもん‐ひひょう〔‐ヒヒヤウ〕【本文批評】 の解説

古典作品などの原典を復元するために、伝本どうしを比較したり語学的に検討したりすること。本文批判。原典批判。テキストクリティック。”ー辞書より

 批評や批判は否定的な響きのある言葉ですが、検討や検証の意味があります。

 

新約聖書における異なる読み

田川建三によれば、世界で最も現存する写本数の多い新約聖書の諸文書は、同一箇所について膨大な異なる読みを持つことで知られる。オリジナルのギリシア語テキストでは「ほとんど一つ一つの文(センテンス)について、必ず異なった読みが存在するくらい」である。この異なる読みの中からオリジナルの形を推定することが本文批評の主たる目的である。”ーwikiより

 原典を復元するためにベンゲルが取った方法とは「異読を訂正せずに、異読のまま列挙する」という作業です。また聖書のセンテンスに別のナニかを読み込むことを否定しました。

 神父や牧師は信者に対して、聖書を分かりやすく解説しようと別のモノを読んで説教するのですが、ベンゲルはこういった立場の聖職者から「聖書の敵」とレッテルを貼られてしまいます。

 

 [ガラス玉演戯]の理念からすると、違いを無理矢理ひとつにまとめて訂正するのではなく、その異なりの中から公分母と調和を発見する態度ですので、ヨーゼフ・クネヒトはこのベンゲルをガラス玉演戯の系譜に取り込もうと考えます。

 しかし、主人公のこの試みは失敗に終わり、出向先のベネディクト派の修道院ヤコブス神父との親交により、敬虔「神に用意された人間が到達できる極地」について共同研究していくことになります。

 

陰陽五行思想 対立の調和

 陰陽五行思想キリスト教圏の人たちよりも、日本人の方が馴染みがあります。太極図のように陰・陽のバランスを大切にする思想です。

 神道において神様は、荒魂と和魂で理解され、禍福をもたらす存在として考えられています。また、陰陽道も大陸から輸入された思想と、日本に古代からある考えのミックスで、どちらかに極端に偏った状態を良しとしません。

 一方で、キリスト教圏では、善と悪とを完全に分断してしまいますので、バランスという概念に乏しいです。善いものは主と聖書が定め、それ以外は悪となってしまいます。

 また、宗教の発達の歴史としては、古代からある神々やその信仰を畏怖する日本では、古代の神を封印してしまうと祟りがあるかもしれないので、慎重に系譜に加えていきます。

 キリスト教圏では一神教なので、キリスト以前の土着の信仰は邪教として否定されます。分かりやすいところでは、「ソロモン王と72柱の悪魔」で、悪魔として数えられている一つ一つを検証すると、ほとんどが古代や別の地域の土着の神々だったりします。

 火は便利ですが、大きすぎると危険です。また、水の恩恵も多すぎると害となります。要はバランスの問題で、善悪に二分するのではなく、明暗のコントラストのように相対的にとらえる感覚です。

 

”つまり、われわれの使命は、対立を正しく認識することだ。まず、対立として、それから統一の両極として認識するのだ。”ーP.64

 生者と死者とを分けるのではなく、生きるとは死に向かうこととして、対立するモノを天秤の上に乗せて、天秤ごとその揺れを認識する視点が東洋思想です。

キリスト教の派生形式の還元

”ひょっとしたらカスターリエンの文化も、キリスト教西洋文化の世俗化された一時的な派生的末枝的形式にすぎないのであって、いつかはまたそれに吸収され還元されるかもしれないという考えが、神父との談話の中で時々暗示されても、クネヒトはそれに真剣に抗弁はしなかった。”ーP.145

 [ガラス玉演戯]をキリスト教の派生形式とした上で、諸宗教を同列に扱うことが出来る[ガラス玉演戯]を用いて公分母を求め、それらを再び本流に還元しようとするヘッセの意図が見えます。

 この部分をどう読むかは、読者によって態度の分かれるところだと思っています。[ガラス玉演戯]は極度に不自然に高尚化された理想郷ですが、小説『ガラス玉演戯』は最終的には世俗やキリスト教に還元しようとする物語です。

 

ヘッセの宗教観

”ある人間が個人的に宗教を選ぶということが考えられるとしたら、私は心の底のあこがれから、きっと保守的な宗教に、即ち、孔子に、バラモン教に、あるいはローマ教会に加わっていただろう。”ー高橋健二著「へルマンヘッセ全集 別巻 ヘッセ研究」P.161

 ヘッセの生い立ちについて調べると、かなり特殊な環境に育っているのが分かるのですが、ここではあまり詳しく述べず、宗教観の外観だけ触れておきます。

 ヘッセの母方の祖父は伝道師(プロテスタント)としてインドで何度か暮らしたことがあり、聖書をインドの言語に翻訳し布教に努めています。ヘッセの母は宣教師と結婚し、祖父と同じようにインドに渡り、出産し二児をもうけますが、夫が健康を害し一家で帰国、その後死別して寡婦となり、祖父の宗教出版事業を手伝います。

 ヘッセの父も伝道団の一員としてインドに行き、やはり体調を崩して帰国、そして次に伝道団から指示され赴いたのが、母の手伝っていた出版事業でそこで両親が出会います。両親ともに敬虔なプロテスタントです。

 プロテスタントは「ローマ教会の権威主義に抗議する」という点で、立場を共有しているのですが、聖書をラテン語ギリシャ語ではなく母国語で読もうとし、聖書解釈の多様さを尊重しますので多くの教派が乱立してしまいます。

 しかも、カトリックのようなヒエラルキーも否定しますので、プロテスタントにはそのような分裂を止める求心力を持つ中心的存在も欠き、どこまでも相容れず広がっていってしまいます。

 

”両親のキリスト教は、生きられた生活として、奉仕として、使命として、崇高偉大であったが、宗派的なセクト形式はすでに少年のころからヘッセにとって疑わしく思われ、耐えがたく感じられた。新教が旧教のような一つの確定した信仰告白と教義と真の教会を持たないために、祖父や父が苦しんでいるのを、ヘッセは幼少のころから見のがさなかった。”ー同P.204

 このためヘッセは、プロテスタントの家に生まれながら、プロテスタントには懐疑的な立場を取ります。信仰というよりは国や団体の思惑によって無秩序に広がる新教よりも、国を越えても信仰によって秩序を保つ旧教に魅力を感じたようです。

 インドを介して東洋思想に理解を深め、最終的には古今東西の宗教を遊戯的に調和させ、ローマ教会と世俗への還元を目指します。

 このとき、小説『ガラス玉演戯』におけるベンゲルの役割がとても重要になってきます。ベンゲルルター派の敬虔主義者で本文批評を確立した聖書学者で、志向しているのは[ガラス玉演戯]と同様に調和です。