Das Glasperlenspiel

○ドイツの小説家へルマン・ヘッセの大作「ガラス玉演戯」を考察しています。ヘッセの他の著作についても、「ガラス玉演戯」と絡めて解説します。

序章「ガラス玉演戯」 小説『ガラス玉演戯』の目的

 小説『ガラス玉演戯』では、伝記の形式を装って物語が進められます。序章にあたる部分では、その導入として[ガラス玉演戯]の具体的な方法や、発展の歴史、意義や基本理念についてまとめられています。

 しかし、この序章部分はヘッセの作品の中でも特に難解な表現に終始し、はっきり言えば不親切な解説になっています。ヘッセはこの序章で読者を選別しているのでは?とも勘ぐってしまいます。

 読者の知りたいことは瞑想法[ガラス玉演戯]の具体的な方法なのですが、読むほどに煙に巻かれて結局何なのか分からなくなります。ですが、これも序章を良く読めば分かることなのですが、主人公であるガラス玉演戯名人、ヨゼフス3世の生き方が[ガラス玉演戯]の理想の体現であることが示されています。

prologue

 

 

「序章 ガラス玉演戯」の概要

 本書がガラス玉演戯名人、ヨーゼフ・クネヒトの伝記であることの説明。[ガラス玉演戯]の発展の歴史と、その意義や理想について詳しく述べられている。

 フェユトン(文芸娯楽欄)という概念を提示し、二十世紀に見られた娯楽的に文芸を消費する現代人の態度を非難し、ヘッセの求めるより崇高で遊戯的な読書のあり方についての復活を試みる。

「序章 ガラス玉演戯」のトピック

 ガラス玉演戯名人ヨーゼフ・クネヒトの伝記の作成を試みたのは、個人崇拝ではなく真理と学問に奉仕する精神からである。

 伝記作家にとって主人公に期待するのは、個性を聖職制度に溶け込ませながら保身を願わず前進し、個人の香気を損なわない人物である。

 [ガラス玉演戯]の完全な歴史と理論を示すことは困難であり、通俗的な手引きをつけるにとどまる。

 [ガラス玉演戯]は、われわれの文化の内容と価値とのすべてをもってする演戯であり、芸術家の創作活動と変わらない。

 ガラス玉演戯の起源を探すのは不可能で、理念に従えば、歴史の中で常に存在していた。それらは科学と芸術、科学と宗教とを融和させようとする試みの中に存在していた。

 数学の公理を神学的哲学的概念に応用したり、音楽家も数学的思考を用いて作曲したことは、人類の営みの全てに[ガラス玉演戯]の思想がその根底にあったはずだ。

 [ガラス玉演戯]の隆盛は、フェユトン[娯楽文芸欄]時代のカウンターカルチャーとして顕れた。フェユトン時代では、消費社会の中にあって、文芸も大衆迎合化し、文化全体がタブロイド化していった。

 また、中世ヨーロッパの精神は、ローマ教会の支配から独立し、自己の優越と知性の自覚を目指しながらも、新たに獲得した知性に見合った新たな権威を希求する矛盾に陥った。

 フェユトン時代では、堕落していく文化を眺めながらも、一部の人たちのなかでは厭世的に、または自覚的に良心を取り戻そうとする小集団も現れた。

 古来より続いている音楽では、拍子・足踏み・太鼓などのリズムで魔術的な一体感を生むことが、すでに[ガラス玉演戯]の実践であり、数学的な公理が諸科学に秩序をもたらし、そこに東方巡礼者たちの瞑想が加わり徐々に[ガラス玉演戯]が形を成していった。

 「ガラス玉演戯」はまず音楽家たちの遊びのなかに生まれ、五線譜に見立てた針金の上に、音符を象徴したガラス玉を並べ、主題として提示されたメロディーを継続するか、対位法を用いて応える即興音楽として発展した。

 その後、ガラス玉の代わりに記号が用いられるようになったが、名称だけは[ガラス玉演戯]として残った。音楽家の間では2、30年で人気を無くしたが、今度は数学者の間で利用され、記号と略号の考案が進んだ。

 さらに、演戯はほとんど全ての学問に取り入れられ、例えば、音楽作品の分析考察を物理的数学的公式でも表せるようにもなった。この頃になると気晴らし的な遊びの側面は小さくなるが、スポーツのような技巧性と、精神訓練の方法として愛好され、ついに人類はフェユトンを克服した。

 しかしそれでもまだ、[ガラス玉演戯]は個々の学問の専門性の中にとどまっていたが、バーゼルの遊戯者という人物により国際的象形語が開発され、全ての学問の公分母を求めることが可能になった。

 この頃になると、2、3のカトリック宗団も[ガラス玉演戯]に新しい精神の空気をかぎつけて熱中し、また、東方巡礼者たちも加わり演戯に瞑想という概念をもたらした。   

 かつて個人的で小規模な行為だった[ガラス玉演戯]は、往々にして記録され、町から町へ、国から国へ報告され、演戯は公の祝典となって賞嘆されるようになった。

 [ガラス玉演戯]では、法則と自由、個人と社会というような二つの敵対する主題や理念を、並列させたり、対抗させたりし、最後に調和的に結合させることが愛好された。

 キリスト教神学の表現や聖書の文句、教父やミサの一文なども、数学の公理やモーツァルトのメロディーと同様に、演戯の記号用語に取り入れられた。

 [ガラス玉演戯]もローマ教会もその存続を願う限り、非精神的な世俗と戦うために依存し合っていたが、ローマは演戯に対して好意的・拒否的態度を往来し、教会の品位を守った。

 最後に、ガラス玉演戯名人、ヨーゼフ・クネヒトの語った古典音楽の本質に関する言葉を引用して、序論を締め括る。

”この音楽の中には、古代とキリスト教との遺産が、朗らかで勇敢な信仰の精神が、しのぐことのできない騎士道の道徳が、含まれている。なぜなら古典的な文化の姿態はすべて結局、道徳を、人間の行動を一つの姿態に凝縮させて作った模範を、意味するからである。”ーP.34

「序章」の難解さ

 本書の目的は、キリスト教と[ガラス玉演戯]、崇高さと俗世間、学問と宗教、キリスト教徒と異教徒、芸術と大衆文化など、互いに相容れず交わらない概念を調和的に結合させることです。

 私の方でかなり頑張って簡略化しましたが、序章から何が始まったのか?とても分かりづらい内容になっています。なのではじめから序章は読まずに飛ばして、一章から読み始めてもいいと私は思っています。

 順番的には、最初に訳者あとがきを読んでから、物語を読み進め、最後に序章を読んでもいいぐらいに思っています。物語の展開を理解した上で序章を読むと、なぜこのような前書きが必要となったのか納得するのですが、予備知識がないままで読もうとすると、挫折します。

 本章では「東方巡礼者」という謎のキーワードが登場しますが、これについては後述しますので、現時点では無視します。ざっくりとした説明をすると、ヘッセが本書を着想した際に、影響を受けた人物たちを「東方巡礼者」として括っています。

 『東方巡礼』はヘッセが『ガラス玉演戯』を執筆する直前に発表された中編ですが、序章はこの「東方巡礼者」がなんであるか?読者が理解している前提で話が進められています。この辺もとても不親切で、本書が万人向けではない理由となっています。 

『ガラス玉演戯』とは何か?

 他の記事でも書いていますが、『ガラス玉演戯』とは何なのか?整理しておきます。考察・解釈するような文章ですが、あくまでこれはわたし個人の読書体験を語るもので、一般的にどう読まれているかとは全く関係がありません。

瞑想法[ガラス玉演戯]の基本的思想(理念)

 [ガラス玉演戯]とは全ての学問・芸術・宗教を同列に扱える思索法で、二つの敵対する主題や理念を、最終的には調和的に結合させ、統合を発展させることを目指します。そして、演戯の基本的思想は、専門性を高めるべく分化していった各分野の学問・芸術・宗教の中から、「公分母となる共通原理」を導きだし、相容れない対立を天秤の上に置き、その揺れる天秤ごと両儀的に取り込み、調和を一般化し公演することを目標とします。

小説『ガラス玉演戯』の基本的構造(あらすじ)

 小説『ガラス玉演戯』では、地方の田舎町に生まれた天才児クネヒトが英才学校に入学し、ローマ・カトリック修道院をお手本に運営される、教育州の聖職制度のなかで出世し、ガラス玉演戯名人に大成します。

 その後主人公のクネヒトは、自然に営まれる俗世間の生活とは隔絶され、極度に不自然に美化された教育州や聖職制度、そして[ガラス玉演戯]に限界を感じその職を辞し、世俗の家庭教師になるストーリーとなっています。

小説『ガラス玉演戯』の基本的構想(目標)

 小説『ガラス玉演戯』は、キリスト教西洋文化の世俗化された一時的な派生的末枝的形式にすぎない[ガラス玉演戯]に、キリスト教の外側にある諸宗教や思想や学問を遊戯的に検証させた上で、本流であるキリスト教に還元しようとする物語です。

 また、[ガラス玉演戯]を支える聖職制度はカトリック修道院をお手本に営まれていますが、主人公はこの両制度を不安視し、柔軟さと活力を取り戻すべく、「世俗の生活」の中に解決策を求めます。

ヘッセの読書術 第二段階

 『ヘッセの読書術』では、へルマン・ヘッセの読書法について、読者のレベルに応じて三段階が示されています。その内、第二段階にある読者について、このように示しています。

”この種の読者は、たとえばひとりの作家や哲学者がある事項についての自分の解釈や評価を、自分自身と読者に納得させようとしてどんなに努力しているかを客観的に観察することができ、その努力を微笑ましく思い、作者は思うままに書いているように見えても、自分の意思以外のものの規制を受けているにすぎないことがわかる”ー『ヘッセの読書術』P.67

 この読書術の第二段階を用いて序文を読むと、序文がここまで難解になってしまった理由は、ヘッセのローマ・カトリックに対する配慮からだということが分かります。

 つまり、主人公がガラス玉演戯名人に就任したにも関わらず、宗団や聖職制度、[ガラス玉演戯]が直面している危機について、辞表の中で指摘し警告するのですが、これはローマ・カトリックへの警告とも読めてしまいます。

 ヘッセはこの事をうまく隠しながらも、しかしたどり着いた読者がいても、敬虔な信仰を汚すことのないように、まず序文で自身の態度を示しました。読者への伝記の導入というよりは、信心深い方たちへの配慮が中心になっているのが、序文の展開が不親切になってしまう原因です。

 ニーチェは「神は死んだ」と叫びました。しかし、ヘッセはキリストに育てられた人類が、その恩恵を忘れて歴史や苦難や過ちを足で踏みつけ土台とし、一人立ちしようとする恩知らずな態度を良しとしません。

 

 ヘッセが自らに課した規制と、そこに払われた努力について、読者が無視することはできません。ここで、自戒の念を込めて、[ガラス玉演戯]を読む態度を改めて示します。

[ガラス玉演戯]は信心深い方たちの祈りを妨げてはならない。