Das Glasperlenspiel

○ドイツの小説家へルマン・ヘッセの大作「ガラス玉演戯」を考察しています。ヘッセの他の著作についても、「ガラス玉演戯」と絡めて解説します。

「ガラス玉演戯」 とは何か?

小説『ガラス玉演戯』とは何か?

 小説『ガラス玉演戯』とはドイツの小説家ヘルマン・ヘッセの著した長編小説です。原題『Das Glasperlenspiel』は、日本では『ガラス玉遊戯』とも訳されています。

 [ガラス玉演戯]とは、ヘッセが考案したガラス玉遊びで、ヘッセの理想を集約し、荘厳に高尚に美化しされた瞑想方法です。この魅惑的な名前を付けられた瞑想法[ガラス玉演戯]の理想を、物語によって説明する内容になっています。

 小説『ガラス玉演戯』は1943年、第二次世界大戦の最中、スイスで刊行されました。当時ヘッセは1923年からスイス国籍を取得しており、本小説は1931年から1942年の歳月をかけ、亡命先のスイスで書き上げられました。

 現在、紙媒体の書籍は絶版になっており、復刻版と全集は古本市場ではかなりの高値で取引されています。小説を読むには電子書籍を購入するか、図書館で借りるのが妥当です。

 

 

舞台となっている学園都市・カスターリエン州

 この物語はガラス玉演戯名人、ヨーゼフ・クネヒトの伝記という形で書かれており、現在よりも遠い未来を描くSF小説です。

 巻末の訳者あとがきに、舞台となっているカスターリエン州の完璧な説明がありますので、引用します。

”この長編は、紀元2400年ころの、カスターリエンという学芸の香り高い理想郷を舞台にしている。プラトンのアカデーメイア、あるいはゲーテの『遍歴時代』の教育州などが連想されるであろう。学問と芸術と瞑想とを三柱とする聖職制度の州が想定される。節度、調和、秩序、畏敬、全学芸の全分野の神秘的結合などを基調としている点で、二十世紀と反対な世界が考えられる。この州の精粋がガラス玉演戯である。”ーP.500

 小説『ガラス玉演戯』には複数の訳があり、私が読んでいる本は、ヘッセとの直接の親交があった訳者・高橋健二氏によるものです。

 私は日本語で読めるヘッセ作品のほとんどを読み尽くしましたが、その全てがこの高橋健二氏による訳のお陰です。ヘッセ作品の中でも特に難解を極める本作ですが、この訳者によるガイドがなければ読み進めることは無理でした。

 

小説『ガラス玉演戯』のあらすじ

 この物語の全体のあらすじについても、巻末の訳者あとがきに完璧な要約がありますので、そのまま引用します。

”人間の文化の極限に到達するガラス玉演戯名人、ヨーゼフ・クネヒトの伝記という形で、この作品は書かれている。きびしくて豊かな精神的修練を経て、天分に富んだ少年クネヒトはカスターリエン州で栄進して、最高の地位に達する。しかし、クネヒト〔しもべ〕という名の示すとおり、高い地位につくものほど、奉仕の精神に生きるべきものとされている。精神に奉仕するクネヒトは最高の地位にのぼったが、それを絶対視することなく、歴史の必然的な推移を透察して自分からその地位を去り、素質のある一少年の家庭教師の地位に退く。(中略)クネヒトは高山の湖水で少年のあとを追って泳ぎ、水死して終わるが、その死は少年に神聖な身ぶるいをおぼえさせ、高い使命を予感させる”ーP.500

 という感じに、エンディングでは、主人公は弟子の少年と湖で遊んでいるときに、溺死するという最後を迎えます。遅くなりましたが本ブログでは容赦なくネタバレします。

 主人公のクネヒトは、その時は泳ぐには疲れすぎているという自覚があったのですが、無邪気にはしゃぐ少年を失望させたくないと思い、寒さに震えながら泳いで弟子を追いかけました。

 物語の中で実現された「人類の可能性の限界」とも言うべき聖人像を突然壊され、現実の世界に引き戻された読者を、弟子の少年にダブらせることがヘッセの狙いです。

 しかし、ヘッセの理想のすべては物語の中にあり、あらすじには何の意味もありません。創作であり、フィクションであり、物語の中でしか実現し得ない理想像です。

 そして、この高尚な伝記の香気を吸い込み、本を閉じたあとに始まる物語が、読者の[ガラス玉演戯]です。

 

瞑想法[ガラス玉演戯]とは何か?

 小説内では瞑想法[ガラス玉演戯]の具体的な方法は明示されていません。しかし、そのガラス玉遊びの原型として、「五線譜の代わりに並べられた針金の上で、音符に見立てたガラス玉を移動・発展させる」ような音楽家たちによる即興の遊びとして紹介されています。

 また、チェスの駒にそれぞれの意味と役割を象徴させるように、数学や宗教、天文学や戯曲などで用いられる記号をひとつひとつのガラス玉に割り当て、命題の証明に用いるといった思索法としても示されています。

 その後、ガラス玉の代わりに演戯記号の開発が進み、各分野で独自に用いられていた演戯記号が統合され、国際的象形語の完成をもって、[ガラス玉演戯]は全ての学問を同列に扱える思索法となります。

 [ガラス玉演戯]として好まれるのは、二つの敵対する主題や理念を、最終的には調和的に結合させ、統合を発展させることです。

 そして、瞑想法[ガラス玉演戯]の基本的思想は、これら専門性を高めるべく分化していった各分野の学問・芸術・宗教の中から、「公分母となる共通原理」を導きだし、対立を調和し、一般化することです。

 

”つまり、われわれの使命は、対立を正しく認識することだ。まず、対立として、それから統一の両極として認識するのだ。”ーP.64

”われわれの演戯は、哲学でも宗教でもない。独特な規範であって性格は芸術にもっとも良く似ている。特殊の芸術だ。”ーP.116 

”自分の専門を絶えず他のいっさいの科学と結びつけ、すべてのものと深い親交を保つことによって、自分の専門と自分自身とに活気と弾力を保つことである。”ーP.196

”ガラス玉演戯は、学問と、美の崇拝と、冥想という三つの原理を全部、内部に結合させている。”ーP.272

 

[ガラス玉演戯]の基本的思想

”公分母を求めてやまなかったのです。それこそガラス玉演戯の基本的思想にほかならないのです。”ーP.138

”節度、調和、秩序、畏敬、全学芸の全分野の神秘的結合”ーP.500

 一体そんなことが可能でしょうか?しかし、日本人である私たちにとっては、理解の助けとなる概念があります。

 ここからは、私がどのように小説『ガラス玉演戯』を読んだのか?個人的な感想になります。

 「公分母となる共通原理」とは、端的に言うと、求道的な生き方で名人の域に達した人たちが得る悟りの境地のようなものだと私は思っています。

 例えば、

 日本では、武道や禅宗、茶道や能楽のような、ただひたすらに自身の専門性を高めていく道(どう・タウ)があります。これらの専門家は、最終的に達観すると一様に「間・空・空間」の中に真理を見出す傾向があります。日本画の余白に美を見る感性も然りです。

 しかしこれらは、名人の域に達していないものには理解できず、不文律になることがあり、一般化されていないので、一般人には理解できない概念としてとどまっています。

 瞑想法[ガラス玉演戯]の目的は、これら不文律で一部の達人同士でしか理解し得ない境地を演戯記号を用い一般化し、公演することです。

 

名人は名人を知る

 名人や達人同士の交流はいかなるものか?日本人に馴染み深いエピソードを紹介します。

 江戸城中で能が催された際、将軍家光は側で侍う兵法師範・柳生宗矩に対し「観世左近の所作に、切りつける隙ありと見て取ったならば余に申せ」と言います。

 そして演目が終わると柳生宗矩は「寸分の間(隙)もありませんでした。ただ一度、大臣柱の方に隅をとった時、拙者の打ち込めそうな、わずかな間がありました」と言上します。

 一方で、楽屋で観世左近が側の者に、上様の側におられた方はどなたか?と尋ねます。「隅を取ったところで、少し気が抜けてしまった。あのとき、かの仁がニコリとされたのが気にかかったのだが、なるほど、音に聞く柳生但馬守殿であったか。」

 

 能楽と武道は原理・原則が異なり、鍛練の道も違います。しかし、達人の域にある名人同士は同じものを見ている例です。

 また柳生宗矩は「剣禅一如」を提唱し、修身の手段としての剣術を確立し、「これ以上は剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要です」と家光に沢庵和尚を推挙したりと、教育者としての評価も高い人物です。

 

宗教と学問の融合

 小説『ガラス玉演戯』の主題とは、宗教や学問や芸術といった、これらの全く異なる発展を遂げた各分野の真理の中に共通する原理を発見し、相容れない概念を「対立する二つの極」のままに調和させることです。

 ここで、宗教と諸学問とを融合してしまうことには、信仰に対する冒涜を孕んでしまう危険が生まれます。小説内ではこの事に対するヘッセの危惧が見受けられ、慎重に物語が展開されています。

 ヘッセが信心深い方たちに対する敬意を欠かさず、言葉を尽くして苦心した内容を、私が乱暴に要約してしまうのは大変おこがましいことですが、それでも私はその暴挙を試みます。

 ヘッセは小説内で、神の導きによって生きる人たちの中に、人類が獲得できる「敬虔な態度」の極みを取り出しました。それは、神の教えがあればこその「敬虔」なのですが、教義を取り除いて純化し、単に「人類の可能性の極地」として抽出してしまう恐れを伴う実験でした。

 このため、ストーリーにおいても、ヘッセがこの懸念を振り払うために苦心している様子が見てとれます。

”ローマは、演戯に対し、あるときには好意的な、あるときは拒否的態度をとることで満足した。実際、修道会や、上級の聖職者階級でも、最もすぐれた天分のあるもので、この演戯者に加わっているものが少なくなかった。”ーP.32

 この物語の主人公であるヨーゼフ・クネヒトは、とある歴史に関して研究をしています。そしてベネディクト派の修道院の神父と、その歴史の共同研究を進めていく中で、親交を結んでいく様子が描かれています。

 瞑想法[ガラス玉演戯]は「神に対する祈りの模倣」として、一部の聖職者からは懐疑的な態度をとられているのですが、この主人公と神父が結んだ友情の中に、学問と宗教の和解を目指しています。

 そしてその両者の間を取り持ったのが、「敬虔」というキーワードです。神を持たないカスターリエンでは、「敬虔さ」を得ることができず、この事がクネヒトの研究課題となりました。一方で、神父は異教徒や別宗派の融和を試みようとしたとき、ルター派で起こった敬虔主義のある人物が研究対象となりました。

 無神論者の学者とローマカトリックの神父、両者の友情のきっかけを作ったのが、ルター派の聖書学者だったという構図です。

 

宗教と芸術の融合

 西洋における音楽や絵画の発展の歴史は、宗教と密接な関わりがあることは、既に知られているとおりです。

 本作においても、芸術には宗教が、また宗教には芸術が必要とされ、互いに高め合う存在としてあったことが周知の事実であり、[ガラス玉演戯]の起源をJ.S.バッハにも結びつけています。 

 例えば、

”数理にしばしば立脚しているバッハの音楽を、われわれはそれと知らずに楽しんでいるのだが、そのときわれわれの魂は、数学的な法則の原理性を、深いところで享受しているかもしれないのである。”ー出典 磯山雅著「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」P.277より引用

 また、

”細部においてカトリック的な特徴とルター派的な特徴とを共存させているこのミサ曲(ロ短調ミサ曲:bwv.232)に、バッハが宗派を越える信仰への願いを込めたにちがいない、”ー出典 同P.280

 バッハはその偉大な功績によって知られているとおりなのですが、今で言うところのスピリチュアルな数秘術に精通し、音楽に数学的な意味を込めたことでも研究されています。

 引用箇所は『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』という書籍の、第Ⅹ「数学的秩序の探求」の章から引いたのですが、バッハは音楽に数学的な秩序を求めるピタゴラス教団のような神秘主義を覗かせ、また、ルター派カトリックの和解に着想を得て、その願いをミサ曲として完成させています。

 数学と音楽を結びつけ、また、宗派の対立を音楽的に解消に導く態度は、まさにヘッセの理想とする[ガラス玉演戯]そのものです。

 

崇高さと世俗の融合

”われわれカスターリエン人は、人工的に飼養されている歌う小鳥の生活を送り、みずからパンをかせごうとせず、生活の苦しみや戦いを知らず、われわれのぜいたくな生活の基礎を与えるために貧乏して働いている人類の一部について何も知らず、また知ろうともしない、”ーP.78

”歴史は利己主義や本能生活の罪の世界を材料とし動力とするのでなければ、成立しえないということ、カスターリエン宗団のような崇高な組織も、この濁った流れから生まれ、いつかはまたそれに飲み込まれるということを、”ーP.227

 主人公は最終的に教育州カスターリエンを去り、世俗に生きる子供の家庭教師になるのですが、ヘッセは極限にまで高めた崇高な理想を俗世間に還元しようとします。 

 

[ガラス玉演戯]の起源

”われわれはガラス玉演戯が、理念として、予感として、理想の姿として、すでに昔の時代にいくども早く作られていたのを見いだすのである。たとえば、ピタゴラスにおいて、それから古代文化の後期において、ヘレニズム・グノスティク〔霊知主義〕の一団において、それにまた劣らず、古代中国人において、それからアラビア・ムーア人の精神生活の頂点において。”ーP.12

 また、ノヴァーリスの魔術的な夢であったり、プラトンのアカデミー、ライプニッツヘーゲルの精神的宇宙が、[ガラス玉演戯]の起源であると紹介されています。

 ここで、さらっと紹介されているヘレニズム・グノスティク(直感的神秘的宗教哲学)はキリスト教とは相容れず、異端として危険視されている思想です。

 グノーシス主義は乱暴に解説すると、「全ての被造物(世界、宇宙、人間の体、など)は悪である。しかし、人間の魂は神の一部であり、神聖さを備える。」といった内容です。

 古くはギリシャ神話におけるオルフェウス教やディオニュソス教に始まる、不滅の魂を信じる思想です。神々が謳歌する神話の中で、普通の人間が音楽を武器に神々と同等以上の活躍をするオルフェウスを神聖視する考え方です。

 ピタゴラス教団は、ソーマセーマ(肉体は魂の墓場)という考え方で、数学と音楽とで魂を解放しようとする神秘主義を展開します。

 プラトンイデア論の中で、人間の魂はイデア界で真理を見ていたが、不浄な体を得てこの世に産まれたことで真実を見失ったとしています。先ほどのバッハも数秘術を音楽に取り込んでいます。

 グノーシスは多岐に渡り、様々な影響を周りに与え、また逆に取り込みながら進化していった思想なので、一言で言い表すことは難しいです。

 

 このような起源を持つ[ガラス玉演戯]をローマ・カトリックと結びつけようとしているのが、小説『ガラス玉演戯』です。

 この件に関しては、別記事でもう少し丁寧に読み解きたいと思いますが、私の読み方のスタンスを明らかにしておくと、「グノーシスから、信仰や主を否定する要素を取り除き、理知的な瞑想法を抽出する。」というのが、瞑想法[ガラス玉演戯]だと思っています。

 あるいは、「キリスト教から派生した瞑想法[ガラス玉演戯]で、異端や異教徒の考えを理知的に考察し、本流であるキリスト教に還元する。」という方法です。

 

本ブログの目的

 本ブログの目的は、小説『ガラス玉演戯』を読み解くためのヒントとなるものを、可能な限り提示することです。私自身、何度も挫折し、行き止まり、未だに読み解けている自信はありません。

 このブログは、途方に暮れていたかつての自分に宛てて、「お前が知りたかったのはこんな情報か?」と、古本に書き込みを残すような行為です。

 このブログは、私が読むことのできるヘルマン・ヘッセの全著作をガラス玉に見立て、そのガラス玉をただ一点『ガラス玉演戯』に結びつけようとする読み方です。特に断りがないかぎり、引用は「ガラス玉演戯ーブッキング版」の復刻版のページ数を記載しています。現在は絶版になっているので、電子書籍を購入するか図書館に行くしかありません。

 いつか誰かがヘッセを知り、本書を手に取ったときに、ガイドとは成らなくともひとつの読み方を示しておくことで、参考・批判しながら自分の読書を進めて頂きたい想いから始めました。

 

 かつての、私に届きますように。

 いつか、あなたに届きますように。